六

「さあ、姉さん、ずっとこちらへお入りやしとくれやす。ほかに遠慮するような人だれもいいしまへんよって」
といいつつ、主人は母親が今まで敷いていた蒲団を裏返して、長火鉢に近いところに直した。主人の背後《うしろ》に身を隠すようにしながら、庭から茶の間に入ってきた彼女は、隅の暗いところに立ち竦《すく》んだまま、へえへえと温順に会釈《えしゃく》ばかりして、いつまでもそこに居わずろうている風情《ふぜい》である。
 婆さんもともに声をかけて、
「姉さん、なんもそないに遠慮せんかてよろしい。さあさあそなとこにおらんとずっとこちらへお上りやす。きつう寒うおす」
 彼女が、そうしたまま、いつまでも家の人たちに口をきかしているのを傍にいて見かねながら、私もそちらを振り顧って、
「皆さんがいうて下されるのだから早うこちらへ上がったがいいだろう」と、声をかけながら、そこに佇《たたず》んだ容姿《すがた》をちらと見ると、蒼ざめた頬のあたりに銀杏返《いちょうがえ》しの鬢《びん》の毛が悩ましく垂《た》れかかって、赤く泣いた眼がしおしおとして潤《うる》んでいる。
 女はなおも面羞《おもはゆ》そうな様子をしながら、
「わたし、もう、ここで失礼いたします」と、口の中でいって、上がろうとせぬ。
 主人も婆さんも、声をそろえて、
「何おいやす、姉さん。そんなとこにいられしまへん。さあさあ」と急いだ。
 女は、「へえ」と腰をこごめながら、それでやっと、「ほんならここからどうぞごめんやす」と沈み沈み言って、上り框に躙《にじ》り上がって、茶の間の板の間のところに小さくなって坐った。主人はそれを咎《とが》めるように、
「姉さん寒いのに、そんなとこにおられしまへんたら、さあこちらへおいでやして、兄さんの傍に来て火鉢におあたりやす」と手を取らんばかりに世話を焼いた。
 女は幾たびもいくたびも催促せられて、まだ泣きじゃくりをしながら、ようよう座蒲団の上まで寄ってきた。
 主人は、合壁の隣りに居残っている母親に気を兼ねて、声をひそめ、二人の仲を改めて取りなすような口を利《き》いて、
「さあ、姉さん、ここは私の内どす。もう誰に遠慮もいりまへんよって、兄さんと心置きのう話したい思うておいでやしたことをお話しやす」
 そういったが、彼女は、何といわれても、ただ「へえ、へえ」と、低い声でいうのみで、憂わしそうに湿っている
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