すぐにも女を自分の手に取り返す術《すべ》はないものかと思いつづけていた。
「それで今本人はどうしています? 私に会おうともいいませんか」私は彼女に面と向って怨みのたけを言いたかった。
「ええ、それで姉さん今ここへ来やはります。……お母はんには、あんたはんは、もうとうにここからお帰りやしたことにして」と、入口の方に気を配りながら、越前屋の主人はその前に坐っている婆さんにも聞えぬように、そうっと私の耳のところに口を持ってきて押っつけるようにしながら「それからなお姉さんがこんなことをいうてはりました。――えらい失礼やけど、もしまたあんたはんがお小遣いでもお入用どしたら私の手を経て姉さんの方からどうともしますよって、そのこともちょっというといてくれ言うてはりました」
 私は、それをじいっと聞いていて、越前屋の主人の口から静かに吐き出す温かい息が軟《やわら》かに耳朶《みみたぶ》を撫《な》でるように触れるごとに、それが彼女自身の温かい口から洩れてくる優しい柔かい息のように感じられて、身体が、まるで甘い恋の電流に触れたように、ぞくぞくとした。
 主人が口を離すのを待って、私は、嬉しさに堪えかねた気持で、
「ああ、そうですか。そんなことをもいいましたか。……いやしかし、それだけ聞けば満足です。私ももう何年もの間|彼女《あれ》のことばかり思い続けて何をするにも手につかずお話のならぬ不自由な目をして来ましたが、まさか私一人の用くらいに事は欠きませんから、そんな心配は無用にしてくれ、それよりも一日も早く自分の決心をしてくれるようにいっておいてください」私はもう少しも毒のない、優しい心に帰りながら静かにそういった。
 主人は私のいうことを聞きながら、外の路次の方に気がかかるように、
「姉さんもう来やはりますやろ」といっているところへ、入口に立っていた越前屋の若い女房はそちらから、
「ああ来やはりました」と低声《こごえ》で知らせる。
 主人はそれで、表の間の方に立っていって出迎えながらわざと声を大きくして隣りの母親に聞えるように、
「お母はんえらい済んまへんが、どうぞ、今お話しましたとおりですよって、ちょっと姉さんをお貸しやしとくれやす。……あのおかたはもうさっき帰らはりましたよって、どうぞ安心してとくれやす」といって、そこへ、おずおず入ってきた隣りの女をやさしくいたわり招じ入れた。

  
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