くような状態《ありさま》で、すこし離れたところから、がみがみいっている。
「あんたはん、何の権利があってここの家《うち》へ黙って入っておいでやした。ここの家は私の家と違いまっせ」と、いいつつ肱《ひじ》を突っ張ってだんだん私の傍《そば》に横から擦《す》り寄って来て、
「黙ってよその家《うち》へ入り込んで来て、盗人《ぬすっと》……盗人!」と、隣り合壁に聞えるような、大きな声を出してがなりつづけた。
「警察へ往《い》てそう言うてくる。警察、警察。さあ警察へうせい。警察へ連れて往く」と、母親は一人ではしたなくいきり立ったが、私が微塵《みじん》も騒ごうとせぬので、どう手出しのしようもない。本人の娘はむすめで、これもどうしていいか当惑したまま、そこに坐って口も利《き》かずに母親の騒ぐのをただ傍見しているばかりである。私は小気味のよさそうに、あくまでも泰然としていた。すると母親は、急を呼ぶように声を揚げて、
「兄さん! にいさん!」と、左手の隣家《となり》の主人を呼んだ。その隣家は、去年の十一月の末、はじめてその路次の中へ女の家を探《たず》ねて入っていった時から折々顔を見て口をきき合っていたのであったが、先《せん》だって中《じゅう》からまたたびたび私が出かけていって、母親と大きな声でいい諍《あらそ》ったりするのを見かねて、もう七十余りにもなる主人の母親というのが双方の仲に入って、ちょっと口を利きかけていたのであった。旅館や貸席などの多いその一郭を華客先《とくいさ》きにして、そこの家では小綺麗な仕出し料理を営んでいたが、兄さんと呼ばれた主人はまだ三十五、六の背の高い男で、その主人とは私はまだ顔を見ただけで一度も口を利いていなかった。母親がそういって大きな声で呼んだので、越前屋《えちぜんや》という仕出し屋の若い主人は印の入った襟のかかった厚子《あつし》の鯉口《こいぐち》を着て三尺を下の方で前結びにしたままのっそりと入って来た。
そうして吟々いっている母親と私とのまん中に突っ立ったまま、「まあまあ、どちらも静かにおしやす」と、両方の掌《て》で抑える形をして、
「ちょうど好いとこどした。此間《こないだ》から私も見て知らん顔はしていましたけど、一遍お話を聴いてみたいと思うてたのどす」といって、そこに腰を下ろすと、母親は隣りの主人が入ってきたので気が強くなって、一層がみがみ言い募った。主人
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