たい、どんなことを話しているであろう? と冷たい黒闇《くらやみ》の夜気の中にしばらくじっと佇《たたず》んでいても、家《うち》の中からは、ことりの音もせぬ。そっと例の硝子戸に触《さわ》ってみるけれど、重い硝子戸は容易に動かない。誰もいない留守なのかと思っていると、いるにはいると思われて、畳の上を人の歩く足音がする。それが母親であったら勝手が悪いと思ったが、試みに、誰とも分らないほどに低い声で、
「今晩は今晩は。……ご免なさいご免なさい」
と声をかけてみると、すっと内から硝子戸が一尺ばかり開いてそっと、白い顔を出したのは、中の電燈を後に背負って、闇《くら》がりではあるが、たしかに彼女である。そして、眼で外の闇の中を探るようにしている。
「お園さん」
と、私は思わず※[#「木+靈」、第3水準1−86−29]子窓に寄り添うようにして力の籠った低声《こごえ》で呼びかけながら手に物を言わせて、おいでおいでをして見せると、彼女は、声の正体が分ったので、そのまま黙って、急いで硝子戸を閉めてしまった。どうすることも出来ない私はちょうど猿《さる》が樹から落ちたような心持になった。向うで幾らかその気があるなら、何とか合図くらいのことはしてくれそうなものであるのに、少しもそんな様子のなかったのは、すっかり心が離れてしまっているからである。そう思うともう心に勢いが脱《ぬ》けて、その上つづけて寒い闇の中に佇んでいる力がなくなり、落胆と悲憤とに呼吸《いき》も絶え絶えになりそうな胸をそっと掻《か》き抱《いだ》きながら空《むな》しく引き返して戻《もど》ってくるのであった。
それ以来硝子戸を固く釘付《くぎづ》けにでもしたと思われて、夜の闇にまぎれて幾ら押してみても引いてみても開かなくなってしまった。相変らず出かけていって窓の下に佇んで家の中の物音に身体《からだ》中の神経を集めて耳を澄ましても母子《おやこ》の者の話す声さえせぬ。何とか家の中を窺いて見る方法はないかと思って、硝子戸を仰いで見ると、下の方は磨《みが》き硝子になっているが上の方は普通の硝子になっているので、路次の中に闇にまぎれて、人の通るのを恐る恐るそこらに足を踏み掛けてそっと※[#「木+靈」、第3水準1−86−29]子格子に取りついて身を伸び上って内を窺くと、表の四畳半と中の茶の間と両用の小さい電燈を茶の間の方に引っ張っていって、その下の
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