小旅行に出かけていった。そっちの方は、もう長い間行ってみたいと思っていたところであったが、この四、五年の間私の頭の中は全部その女のために占領せられて、ほかのことは何もかも後まわしにしておいた。事実のこと、私は、その女を自分のものにしなければ、何も欲しくないと思っていたのであった。名誉も財宝もいらぬ、ただ、あの、漆のように真黒い、大きな沈んだ瞳《ひとみ》、おとなしそうな顔、白沙青松のごとき、ばらりとした眉毛、ふっくりと張った鬢《びん》の毛、すらりとした容姿《すがた》。あらゆる、自分の心を引き着ける、そんな美しい部分を綜合的《そうごうてき》に持っている生き物を自分の所有《もの》にしてしまわなければ、身も世もありはせぬ。随分身体を悪くするまでそんなに思いつめてこの数年を、まるで熱病にでも罹《かか》っているごとき状態で過ぎて来たのであった。
それゆえ私が、美しい自然や古い美術の宝庫である大和の方の晩春の中に入って行ったのは、ちょうどウェルテルが悲しく傷《いた》んだ心を美しい自然の懐《ふところ》に抱かれて慰めようとしたと同じようなものであった。
そして一と月近く大和の方の小旅行をして再び京都に戻って来た時にはもう古都の自然もすっかり初夏になっていた。悩ましい日の色は、思い疲れた私の眼や肉体を一層|懊悩《おうのう》せしめた。奈良《なら》からも吉野《よしの》からも到《いた》るところから絵葉書などを書いて送っておいた。女から何とか言って来るだろうと思っていたが、依然として知らん顔をして何のたよりもしてよこさなかった。とうとうまた根負けしてこちらから出かけて行ってしかたなく普通の習慣に従ってある家から自分とはいわずに知らすると、女はちょうど折よく内にいたと思われて早速やって来た。一年半の間見なかったのである。この前冬見た時よりも気候の好い時分のせいか、それとも普通に招かれたお座敷にゆくので美しく化粧をしているせいか、ずっと肉が付いて身体が大きくなったように思われ、もとからすらりとした容姿《すがた》が一段引き立って、背がさらに高く見えた。彼女たちがそんな不意の座敷に招ばれてゆく時の風俗と思われ、けばけばしい友禅の襦袢のうえに地味な黒縮緬の羽織を着ている。彼女は、階段の上り口から私の方を見たが、顔の表情は微動だもせず、ぬうっとして落ち着いたその態度はまるで無神経の人間のようであった。そして傍へ来ても、「お久しゅう」とも何とも言わずに黙ってそこへ坐ったままである。どんなことがあっても彼女は決して深く巧んだ悪気のある女とは認めないが、対手のいうことがあまり腹の立つようなことを言ったり、くどかったりする時にはさながら京人形のようにその綺麗《きれい》な、小さい口を閉じてしまって石のごとく黙ってしまうのである。その気心をよく知っているので、私は、こちらでもややしばらく黙って、わざとらしく、じろじろ女の顔を見ていたが、やっぱりついに根まけして、
「京人形、京人形の顔を二年も見なかったので、今そこへ来た時にはほかの人間かと思った」戯弄《からか》うようにそういうと、彼女はそれでも微笑もせず、反対に、
「あんたはんかてあんまりやおへんか」
彼女は美しい眉根を神経質に顰《しか》めながら、憤《いきどお》るようにいう。私は「えらい済まんこと」くらいはいうであろうと思っていたのに、向うからそんな不足をいうので、何という勝手な女であろうと思って、腹の中で少しむっとなったが、また、そんなぺたつくような調子の好いことをいわぬのがかえって好くも思われる。
「一年と半とし見ないんだよ。そして一体どんな話になるのだい? こんなに長い間顔を見たいのを堪《こら》えていたのも、後を楽しみにしているからじゃないか」
そういって、今まで手紙のたびに幾度となく訊《たず》ねている彼女の境遇の解放について重ねて訊ねたが、女は、ただ、
「そのことはまた後でいいます」といったきり何にもいおうとしない。
「また後でいいますもないじゃないか。何年それを言っていると思う」
二人はちゃんと坐って向い合いそんな押し問答をしばらく繰り返していたが、彼女は黙って考えていたあげく、謎《なぞ》のように、
「ここではそのことも言えませんから、私、かえります」と、いう。
私は、少し眼の色を変えて、
「妙なことをいう。ここで言えないで、どこでそれを言うの?」
「あんたはんがようおいでやす下河原の家へこれからいて待っとくれやす。そしたら私あとからいきます。ここの家から一緒にゆくのはここの家へ対していけまへんやろ。それから私一遍家へ去《い》んで、あっちゃから往きます」女の持ち前の愛想のない調子でそんなことをいう。
私はまた女のいうことにいくらか不安をも感じたが、本来それほど性情の善《よ》くない女とは思っていないので、だんだん疑いも解け、その気になり、
「じゃ、そうするから、きっとあそこへ来なければいけないよ」と、根押《ねお》しをして、その上もうあまりくどくいわぬようにして、そこの家は体《てい》よくして、二人は別々に出て戻った。
それから私はまた、いつかの下河原の家へ行って待っていた。それは日の永い五月の末の、まだ三時ごろであったが、彼女は容易にやって来なかった。悠暢《ゆうちょう》な気の長い女であることはよく知っているので、そのつもりで辛抱して待っていたがしまいには辛抱しきれなくなって、いいようのない不安の思いに悩まされているうちに、高い塀に取り囲まれている静かな栽庭《にわ》にそろそろ日が影って、植木の隅《すみ》の方が薄暗くなり、暖かかった陽気が変ってうすら寒く肌《はだ》に触《さわ》るようになってきた。それでもまだ女の顔は見られなかった。不安のあとから不安が襲ってきて、いろいろに疑ってみたが、あんなにいっていたからよもや来ないことはあるまい。そんな背を向けて欺き遁《に》げるような質《たち》の悪い女ではないはずである。そんなことをする女を、おめおめ四、五年の長い間|一途《いちず》に思いつめ、焦がれ悩んでいたとしたら、自分はどうしても自身の不明を恥じねばならぬ。義理にもそんな薄情な行為を為向《しむ》けられるようなことを、自分は少しもしていない。……今に来るにちがいない。不安の念を、そう思い消して待っていた。
しかし、それは何ともいえない好い晩春の宵《よい》であった。この前の冬の時と同じように女の来るのを待っている心に変りはないが、あの時とちがい今は初夏のころとて、私は湯上りの身体《からだ》を柔かい褞袍《どてら》にくるまりながら肱枕をして寝そべり、障子を開放した前栽《せんざい》の方に足を投げ出してじっと心を澄ましていると、塀の外はすぐ円山《まるやま》公園につづく祇園社《ぎおんしゃ》の入口に接近しているので、暖かい、ゆく春の宵を惜しんで、そぞろ歩きするらしい男女の高い笑い声が、さながら歓楽に溢《あふ》れたように聞えてくるのである。花の季節はもうとうに過ぎてしまったけれど、新緑の薫《かお》りが夕風のそよぎとともにすうっと座敷の中に流れこんで、どこで鳴いているのか雛蛙《かわず》の鳴く音がもどかしいほど懐《なつ》かしく聴えてくる。それを聞いていると、
「あの、喰《く》い付いてやりたいほど好きでたまらない女は、しまいには本当に自分の物になるのか知らん。いつまでこんな不安な悩ましい思いに責め苛《さいな》まされていなければならぬのであろう。もういつまでもこんな苦しい思いをさせられていないで早く安らかな気持になりたい」
そこへ長い廊下を遠くの方で足音が静かに聴えると思って見ると、やがて女中が襖の外に膝まずきながら、
「えらい遅うおすなあ。お夕飯はどない致しまひょう、もうちょっとお侍ちになりますか」
と訊く。そんなことが二、三度繰り返された後、私はとうとう待ちきれなくなって、腹立ちまぎれに、またいつかの時のように、先きに一人で食べてしまったら、きっと来るだろう、早く顔を見せるまじないに先きに食べてしまおう、と思って、
「持ってきて下さい」と命じた。その自分の心持ちには、ひとりでに眼に涙のにじむような悲しい憤りの感情が込み上げてきた。それは卑しい稼業の女にあくまでも愛着している、その感情が十分満足されないというばかりでなく、どうしてこちらのこの熱愛する心持ちが向うに通わぬであろう。こちらの熱烈な愛着の感情がすこしでも霊感あるものならば、それが女の胸に伝わって、もっと、はきはきしそうなのに、彼女はいつも同じように悠暢であった。
そこへ女中が膳《ぜん》を運んできた。
「おおきにお待ちどおさん」と、いいつつ餉台《ちゃぶだい》のうえに取って並べられる料理の数々。それは今の季節の京都に必ずなくてはならぬ鰉《ひがい》の焼いたの、鮒《ふな》の子|膾《なます》、明石鯛《あかしだい》のう塩、それから高野《こうや》豆腐の白醤油煮《しろしょうゆに》に、柔かい卵色湯葉と真青な莢豌豆《さやえんどう》の煮しめというような物であった。
私は、口に合ったそれらの料理を、むらむらと咽《のど》へこみ上げてくる涙と一緒に呑み込むようにして食べていた。そうしてもう済みかけているところへ廊下にほかの女中とはちがうらしい足音がして、襖の蔭から女がぬっと立ち顕《あら》われた。彼女はさっきとちがい、よそゆきらしい薄い金茶色の絽《ろ》お召《めし》の羽織を着て、いつものとおり薄く化粧をしているのが相変らず美しい。
「今まで待っていたけれどあんまり遅いから食べてしまった。まだ?」
「ええ……」
「じゃ、お今さん、すぐこしらえて下さい。このとおりでいい」女中に命ずると、女は、
「いりません。食べんかてよろしい」
「まあ、そんなことをいわないで一緒に食べよう、待っている」
女は、私の方へは答えず、女中に向って、
「姉さん、どうぞ、ほんまに置いとくれやす」
といって断ったが、ともかくも調《ととの》えて持って来させた。けれども、彼女は箸《はし》も着けようとせず、餉台の向う側に行儀よく坐ったままでいる。そんな近いところから見ていても、ちょうどこんなすがすがしい初夏の宵にふさわしいばらりとした顔であった。匂《にお》やかな薄化粧の装いが鮮《あざや》かで、髪の櫛目《くしめ》が水っぽく電燈の光を反射して輝いている。
女はとうとう並べた物に箸をつけなかった、女中が膳《ぜん》を引いてゆく時、
「姐《ねえ》さん、えらい済んまへんけど苺《いちご》がおしたら、後で持ってきとくれやす」
自分で注文しておいて、やがて女中が退《さが》っていったあとで、女はさっきから黙って考えているような風であったが――もっとも彼女はいつでも、いうべき用のない時は無愛想なくらい口数の少い女であった。自分は、それが好きであった――やがてまた、彼女の癖のように、べちゃべちゃとその理由をいわないで出抜けに、
「あんたはん、私、ちょっと帰ります」と、謎のようなことをいう。
私は思わず胸をはっとさせて、じっと女の顔を見ながら、
「帰りますって、お前、やっと今来たばかりじゃないか。なぜそんなことをいうの。さっきの袖菊《そでぎく》へいけば、あそこでは話がしにくい、此家《ここ》へ行っていてくれと、あんたがいうから、私はここへ来たじゃないか。一体お前の体のことはどうなっているの? 私ももう四年五年君のことを心配しつづけて上げて、今日になっても、五年前と同じように、やっぱりずるずるでは、とても私の力には及ばない。私は、先日うちから幾度も手紙でいっているとおり、今度もあんたと遊ぶためにこうして今日は来たのではない。そのことを訊こうと思って来たのだ。君はいつまで商売をしている気でいるの?」
私は腹を立てたような、彼女のために憂いているような、なんどりした口調で訊ねるのであった。けれど彼女は、口ごもるようにして、それには答えず、
「それはまたあとでわかります」と、困ったようにしかたなく笑っている。
「あとでいいます言いますって、それが、あんたの癖だ。もうそれを言って聴かしてくれてもいい時分じゃないか」私もしかたなく笑いにまぎらしてとい詰め
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