しまった。そのために、まだ春の寒いころから傷《そこ》ねていた健康をも、追い追い暖気に向う気候の加減も手伝って、すっかり回復したのであった。
女は用事を付けてその月一ぱいだけは一週間ばかり家にいたまま休んでいた。どこかへ一緒に歩いてみようかといって誘っても、
「ほんとに商売を廃《や》めてしもうてからにします」とばかりで、夜遅く近処の風呂にゆくほかは一日静かにして家にとじ籠《こ》もっていた。そして稚《おさな》い女の子の気まぐれのように、ふと思い出して風炉の釜に湯を沸かして、薄茶を立てて飲ましたりした。そして、そこにある塗り物の菓子箱を指さして、
「わたしが二月に病気で寝ている時これを持って、見舞いに来てくれた人が、その時私を廃めさすいうてくれたんどっせ」
「ヘえ、そんな深い人があるの」
「深いことも何もおへんけど」
「そして引かすといった時あんたは何と言ったの」
「私、すこし都合がおすさかいいうて断りました」
「その人はどんな人? 何をする人」
「やっぱり商人の人どす」
「まだ若い人?」
「若いことおへん。もうおかみさんがあって、子供の三人もある人どす」
「そんな人しかたがないじゃないか
前へ
次へ
全53ページ中46ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
近松 秋江 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング