「まあ、そんなことをいわないで一緒に食べよう、待っている」
 女は、私の方へは答えず、女中に向って、
「姉さん、どうぞ、ほんまに置いとくれやす」
といって断ったが、ともかくも調《ととの》えて持って来させた。けれども、彼女は箸《はし》も着けようとせず、餉台の向う側に行儀よく坐ったままでいる。そんな近いところから見ていても、ちょうどこんなすがすがしい初夏の宵にふさわしいばらりとした顔であった。匂《にお》やかな薄化粧の装いが鮮《あざや》かで、髪の櫛目《くしめ》が水っぽく電燈の光を反射して輝いている。
 女はとうとう並べた物に箸をつけなかった、女中が膳《ぜん》を引いてゆく時、
「姐《ねえ》さん、えらい済んまへんけど苺《いちご》がおしたら、後で持ってきとくれやす」
 自分で注文しておいて、やがて女中が退《さが》っていったあとで、女はさっきから黙って考えているような風であったが――もっとも彼女はいつでも、いうべき用のない時は無愛想なくらい口数の少い女であった。自分は、それが好きであった――やがてまた、彼女の癖のように、べちゃべちゃとその理由をいわないで出抜けに、
「あんたはん、私、ちょっと帰ります
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