でいたとしたら、自分はどうしても自身の不明を恥じねばならぬ。義理にもそんな薄情な行為を為向《しむ》けられるようなことを、自分は少しもしていない。……今に来るにちがいない。不安の念を、そう思い消して待っていた。
しかし、それは何ともいえない好い晩春の宵《よい》であった。この前の冬の時と同じように女の来るのを待っている心に変りはないが、あの時とちがい今は初夏のころとて、私は湯上りの身体《からだ》を柔かい褞袍《どてら》にくるまりながら肱枕をして寝そべり、障子を開放した前栽《せんざい》の方に足を投げ出してじっと心を澄ましていると、塀の外はすぐ円山《まるやま》公園につづく祇園社《ぎおんしゃ》の入口に接近しているので、暖かい、ゆく春の宵を惜しんで、そぞろ歩きするらしい男女の高い笑い声が、さながら歓楽に溢《あふ》れたように聞えてくるのである。花の季節はもうとうに過ぎてしまったけれど、新緑の薫《かお》りが夕風のそよぎとともにすうっと座敷の中に流れこんで、どこで鳴いているのか雛蛙《かわず》の鳴く音がもどかしいほど懐《なつ》かしく聴えてくる。それを聞いていると、
「あの、喰《く》い付いてやりたいほど好き
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