親は、とある横町を建仁寺の裏門の方へ折れ曲りながら、
「こっちゃへおいでやす」といって、少しゆくと、薄暗いむさくるしい路次の中へからから足音をさせて入っていった。私はその後から黙って蹤《つ》いてゆくと、すぐ路次の突当りの門をそっと扉《とびら》を押し開いて先きに入り、
「どうぞお入りやして」といって、私のつづいて入ったあとを閂《かんぬき》を差してかたかた締めておいて、また先きに立って入口の潜戸《くぐり》をがらりと開《あ》けて入った。私もつづいて家の中に入ると、細長い通り庭がまたも一つ、ようよう体の入れるだけの小さい潜戸で仕切られていて、幽《かす》かな電燈の火影《ほかげ》が表の間の襖ごしに洩《も》れてくるほかは真暗である。母親はまたそのくぐりをごろごろと開けて向うへ入った。そして同じように、
「どうぞ、こっちゃへずっとお入りやしとくれやす。暗うおすさかい、お気つけやして」
といって中の茶の間の上《あが》り框《かまち》の前に立って私のそっちへ入るのを待っている。私は手でそこらをさぐりながらまた入って行った。と、そこの茶の間の古い長火鉢《ながひばち》の傍には、見たところ六十五、六の品の好い小綺麗《こぎれい》な老婦人が静かに坐って煙草《たばこ》を喫《す》っていた。母親はその老婦人にちょっと会釈しながら、私の方を向いて、
「構いまへんよって、どうぞそこからお上がりやしてくれやす。お婆さん、どうぞ御免やしとくれやす」といって、自分から先きに長火鉢の前を通って、すぐその三畳の茶の間のつきあたりの襖の明いているところから見えている階段の方に上がってゆく。私はそれで、やっとだんだんわかってきた。
「これは、この品の良い老婦人の家の二階を借りて同居しているのだな」と、心の中で思いながら自分もその老婦人に対して丁寧に腰を折って挨拶《あいさつ》をしつつ、母親のあとから階段を上がっていった。すると、階段のすぐ取付きは六畳の汚《よご》れた座敷で、向うの隅《すみ》に長火鉢だの茶棚《ちゃだな》などを置いてある。そして、その奥にはもう一間あって、そちらは八畳である。
母親は階段を上がるなり、
「おいでやしたえ」とそっちへ声をかけると、今まで暗いところを通ってきた眼には馬鹿に明るい心地のする電燈の輝いている奥から女がさっきのままの姿で静かに立って来た。まるで先ほどの深く考え沈んでいる様子とは別人のごと
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