でたまらない女は、しまいには本当に自分の物になるのか知らん。いつまでこんな不安な悩ましい思いに責め苛《さいな》まされていなければならぬのであろう。もういつまでもこんな苦しい思いをさせられていないで早く安らかな気持になりたい」
そこへ長い廊下を遠くの方で足音が静かに聴えると思って見ると、やがて女中が襖の外に膝まずきながら、
「えらい遅うおすなあ。お夕飯はどない致しまひょう、もうちょっとお侍ちになりますか」
と訊く。そんなことが二、三度繰り返された後、私はとうとう待ちきれなくなって、腹立ちまぎれに、またいつかの時のように、先きに一人で食べてしまったら、きっと来るだろう、早く顔を見せるまじないに先きに食べてしまおう、と思って、
「持ってきて下さい」と命じた。その自分の心持ちには、ひとりでに眼に涙のにじむような悲しい憤りの感情が込み上げてきた。それは卑しい稼業の女にあくまでも愛着している、その感情が十分満足されないというばかりでなく、どうしてこちらのこの熱愛する心持ちが向うに通わぬであろう。こちらの熱烈な愛着の感情がすこしでも霊感あるものならば、それが女の胸に伝わって、もっと、はきはきしそうなのに、彼女はいつも同じように悠暢であった。
そこへ女中が膳《ぜん》を運んできた。
「おおきにお待ちどおさん」と、いいつつ餉台《ちゃぶだい》のうえに取って並べられる料理の数々。それは今の季節の京都に必ずなくてはならぬ鰉《ひがい》の焼いたの、鮒《ふな》の子|膾《なます》、明石鯛《あかしだい》のう塩、それから高野《こうや》豆腐の白醤油煮《しろしょうゆに》に、柔かい卵色湯葉と真青な莢豌豆《さやえんどう》の煮しめというような物であった。
私は、口に合ったそれらの料理を、むらむらと咽《のど》へこみ上げてくる涙と一緒に呑み込むようにして食べていた。そうしてもう済みかけているところへ廊下にほかの女中とはちがうらしい足音がして、襖の蔭から女がぬっと立ち顕《あら》われた。彼女はさっきとちがい、よそゆきらしい薄い金茶色の絽《ろ》お召《めし》の羽織を着て、いつものとおり薄く化粧をしているのが相変らず美しい。
「今まで待っていたけれどあんまり遅いから食べてしまった。まだ?」
「ええ……」
「じゃ、お今さん、すぐこしらえて下さい。このとおりでいい」女中に命ずると、女は、
「いりません。食べんかてよろしい」
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