湖光島影
琵琶湖めぐり
近松秋江

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)比叡山《ひえいざん》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)老杉|蓊鬱《おううつ》たる

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「酉+焦」、第4水準2−90−41]《ひた》してゐた

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)ほと/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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 比叡山《ひえいざん》延暦寺《えんりやくじ》の、今、私の坐つてゐる宿院の二階の座敷の東の窓の机に凭《よ》つて遠く眼を放つてゐると、老杉|蓊鬱《おううつ》たる尾峰の彼方に琵琶湖の水が古鏡の表の如く、五月雨|霽《ば》れの日を受けて白く光つてゐる。湖心の方へ往復する汽船が煙を吐いて靜かに滑つてゆくのも見える。帆船が動いてゐるのも見える。そのあたりは山の上から眺めても湖水が最も狹められてゐる處で、向ふ側から長く突き出して來てゐる遠洲は野洲《やす》川の吐け口になつてゐる。北方(西岸)から突き出てゐる所に人家が群つてゐて、空氣の澄明な日などには瓦甍《ぐわばう》粉壁が夕陽を浴びて白く反射してゐる。やがて日が比良《ひら》比叡の峰つゞきに沒して遠くの山下が野も里も一樣に薄暮の底に隱れてしまふと、その人家の群つてゐる處にぽつりぽつり明星のごとき燈火が山を蔽うた夜霧を透して瞬きはじめる。その賑やかな人家の群りが先頃から、京都の繁華を離れて此の無人聲の山の上の僧房生活をしてゐる者の胸には何となく懷しくて堪らない。人里の夜の燈火のむれがどんなに此の山の上からは心を惹くか知れない。そこは八景の一つに數へられてゐる堅田《かただ》の町であつた。堅田の町、秋ならば雁の降りる處。また浮御堂《うきみだう》の立つてゐるので知られてゐる名勝區である。叡山東麓の坂本からこの延暦寺の根本中堂《こんぽんちゆうだう》のあるところまで急阪二十五町の登路。坂本から堅田までは汀《なぎさ》づたひに二里弱離れてゐるから、私の凭つてゐる窓から燈火の見えてゐる處まで直徑どのくらゐあるか、私は兎に角、早く一度そちらに降りていつてみたくなつた。

 琵琶湖はまた鳰《にほ》の海ともいひ、その名の如く琵琶に似て、瀬田《せた》、膳所《ぜぜ》、大津などの湖尻から三里ばかり北に入つてゆく間は東西の幅も一里位のもので、それが野洲河口の長沙と堅田の岬端とで狹められてゐる邊は約半里くらゐのものかも知れぬ。それだけの間が恰も琵琶の轉軫《てんじん》の部分である。所謂近江八景は「比良《ひら》の暮雪」のほかは、多く湖南に屬する地點を撰んで名附けてあるが、今日の如く西洋文明の利器に涜《けが》されない時代には、その邊の風景も落着いてゐて一層雅趣が豐であつたかも知れぬ。その頃は唐崎《からさき》の松も千年の緑を誇つてゐたのであらう。膳所《ぜぜ》の城もその瓦甍影を水に※[#「酉+焦」、第4水準2−90−41]《ひた》してゐたであらう。粟津《あはづ》が原の習々たる青嵐も今日のごとく電車の響のためにその自然の諧音を亂されなかつたであらう。芭蕉は殊のほかこの湖國の風景を愛《め》でて、石山の奧には長く住んでゐたのであるが、翁の詠んだ句には湖水の深い處の句は、自分の寡聞のせゐか餘り知らない。多く湖南に屬する景物を吟じてゐる。
[#天から2字下げ]唐崎の松は花よりおぼろにて
 と大津にゐて詠んでゐる句を見ると、二百年前にはそれが實景であつたかも知れぬが、今はもう半ば枯れて空しく無慘な殘骸を湖畔に曝《さら》してゐる。それは樹齡の定命で自然にさうなつたものか、それならば止むを得ないが、汽船の煤煙で枯れたものとすれば惜しいものである。
 とにかく堅田《かただ》、野洲《やす》川河口の長沙以南の湖畔の景致は産業文明のために夥しく損傷されて、昔の詩人騷客を悦ばしめた風景の跡は徒に過去の夢となつてしまつてゐる。水も底が泥で汚く濁つてゐる。その代り轉軫の部分から胴の部分に入つて、堅田の鼻を一と※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]りして遙に北に眼を放つと、水面忽ち濶《ひら》け雲煙蒼茫として際涯を知らない。
 私は琵琶湖の奧の絶景を人から聞いてゐたのは長いことであつたが、いつかは行つてみたいと思つて氣にかゝりながら久しく果たすことが出來なかつた。先頃京都にゐる間にも三條大橋の京津《けいしん》電車の終點からゆけばわけないので、幾度か思ひ立ちながら毎時好機を逸してばかりゐた。すると、僧房の色彩の乏しい生活と、寂しい心を誘惑するやうな堅田の人家の群りと燈火とは遂に私をして、ある五月雨ばれの朝早く比叡山の上から二十五町の急阪を降つてゆかしめた。發着の時間がよく分つてゐなかつたので、比叡の辻の太湖汽船の乘降場までゆくと、八時半にそこに寄航する東※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]りの船が二十分ばかり前に出たあとで、その船は煙を吐きながら堅田の沖を今滑つてゆくのが見える。私はぐるりと湖水を一とめぐりするつもりである。殊に東岸には奧の島があつて、そこには古い長命寺の寺があるので、かねてよりその寺に行つてみたいと思つてゐたから、どちらを先きにしてもよかつたのだ。私は折角二十五町、坂本の濱までは三十五六町の道を喘いで降りて來たのに、そんなわけで、殘念さうに遠くの水の上をゆく船の影を追うて眺めたが仕方がない。そこで通ひ船の船頭の教へるまゝに、その次に西※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]りをゆく船は急行で、坂本港へは寄航しないので、堅田まで俥でいつて、其處から乘ることにした。なるべくならば少しの行程も水路をゆきたいのであるが、先頃來、山の上から眺めてゐる堅田の町に入つてみるのも旅の一興であると早速心を取り直して俥のある處までまた七八町の道を無駄足して下坂本の濱から俥に乘つた。比叡の峰つゞきの裾山が比良岳の方に向つて走つてゐる山麓の村里を過ぎ插秧《さふあう》のをはつたばかりの水田や青蘆の生ひ茂つた汀つたひの街道を走つていつた。俥の上から湖東の方を顧ると、此の春遊びにいつた三上山が平濶な野洲郡の碧落と緑樹と點綴せる上にくつきりと薄墨色に染まつて見えてゐる。衣川といふ昔は一萬石の城下で、北國街道の宿であつた村を越して村はづれを流れてゐる衣川といふ小川の土手を上つて橋を向ふに渡ると、堅田の人家は右手の湖の方に突出でた田甫《たんぼ》の彼方に見えた。大津を十時に發する船は十一時に堅田を發することになつてゐる。時計の針はもう十時五十分を示して、船は田甫の向ふの青蘆のうへに黒い煙突だけを見せて吾々の俥を追掛けるやうに水の上を滑つて進んでゐる。脚達者な車夫は、
「これに遲れたら、もうお金もらひまへん」と笑つて語りながら急速力で驅け出した。
「どうどす。浮御堂へ一寸寄つてお見やすか」と車夫は、そちらへゆく道と棧橋の方へとの岐小路の處で聲をかけたが、私は、京にゐる間から今まで幾度か行きそびれてゐるのに懲りて、直ぐ棧橋の方へ走らした。軒の低い呉服屋や荒物屋などの竝んだ商家の通りを過ぎて俥が棧橋の手前の切符賣場にやつと轅棒《かぢぼう》を下すと、ぽうと笛を吹いて汽船の姿が近くの水の上に見えた。
 浮御堂は、その棧橋を渡りながら右手の方の汀から架け出してあるのが見えてゐる。緑の濃い松が數株そのまはりの汀に立つてゐる。芭蕉は、
[#天から2字下げ]錠あけて月さし入れよ浮御堂
 と詠んでゐる。叡山|横川《よかは》の惠心僧都《ゑしんそうづ》の創建で海門山滿月寺といつてゐるのは、ふさはしい名である。中には千體阿彌陀佛を安置してある。やがて船が着いて私はやつと湖上に浮ぶことが出來た。前甲板に呉蓙《ござ》を敷いて天幕の張つてある處に座をとつて私はそこから四方を顧望してゐた。
 今朝山を下りて來る時分には、どうかと氣遣つた天氣は次第に晴れて大空の大半を掩《おほ》つてゐた雲は追々に散らけ、梅雨上りの夏の來たことを思はせる暑い日が赫々と前甲板の上を蔽ふたテントの上に照りつけた。雲が刻々に消散して頭の眞上にあたる蒼空が次第に天上の領域を擴げてゆくと共に、水の面も船の進行につれて蒼茫として濶けて來た。日は水を照らし、水は光を反射して輝き、水と天と合して渾然たる一大碧瑠璃の世界を現出し、船はその中を、北から吹いてくる習々たる微風に逆つて靜に滑つてゆくのである。湖水では北風が吹くと晴としてゐる。昨日一日山の上で濛々として咫尺《しせき》を辨ぜぬ淫雨に降り籠められ、今朝は夙《つと》に起きいでゝ二十五町の急阪を驅けるがごとく急ぎ下り、勝手の分らぬ船の乘降に、さらでだに疲れたる頭を無益に惱ましたるそのうへに尚二百里[#「二百里」はママ]の間、いぶせき田舍の泥濘路《ぬかるみみち》を俥に搖られて、ほと/\探勝に伴ふ體苦心苦の辛さを味はひ、強《したた》か幻滅の悲しさを感じてゐたのが、眼の前に開けた美しい湖山の大觀のために、今までの憂苦は全く忘れられて、私の心は嬉々として眼の覺めたごとき悦びに滿ち、或は左舷に立つて眺め、或は右舷に凭つて遠く瞳を放ち、片時も眼を休ませないで、飽くことを知らず刻々に移り變る山の影水の光に見惚れてゐた。ここまで來ると比良比叡の峰つゞきが、適度の距離を置いて一とまとめに雙眸に入つて來た。上空から次第に拭ひ去られた雲は僅かに比叡と比良の頂に白紗を纏ふたごとく殘つてゐたが、正午ごろになつて太陽の光が一層強くなつてくると、やがて比叡の頭にも雲は消えてなくなり、船の北進するにつれて山の影は次第に淡く南に殘り、清楚な夏の姿は、さながら薄化粧を施したやうに緑の上を白く霞に包まれてゐる。
 船が堅田を出て初めての寄航地である南濱に寄つて、そこから再び沖に出ると比叡の山影はいよ/\淡く、逢坂《あふさか》山からずつと左に湖南の方に連なつてゐる山脈《やまなみ》とともに段々と遠く水の彼方に薄れていつた。そして左舷には、蜒蜿として湖西の天を蔽ふて聳えてゐる比良岳がその雄大なる山容の全幅を雙眸の中に展開して來た。雨後の翠巒《すゐらん》は一際鮮かで、注意してよく見てゐると、峰は大きく二つに分れてその二つがまた處々深い溪によつて幾つかの峰に分れてゐる。雲は山の面から去つてしまつたが、一番高い主峰だけには綿を千切つたやうな灰白色の雲が頂にかかつたまゝ何時までも動かうともしない。それが如何にも主峰は主峰だけの威嚴を示してゐるかのやうで雲に隱れた部分は距離が遠いせゐか清楚な夏の色も暗緑色に掻き曇つて恐しさうな感情を與へてゐる。雄松崎《をまつざき》の白沙青松は、主峰が大きな溪によつて二つに分れてゐる處から流れ落ちて來る急角度の傾斜を成した比良川の溪流が直ちに湖水に迫つて汀に土砂を押流したところに出來てゐる。山は攝津の六甲山などと、同じやうに花崗岩質の山と思はれて、船の上からも白い砂の盛れ上つてゐる溪流の水路が明かに見えてゐる。比良岳はその高標の割に何となく雄偉の感じに富んだ山である。一つは山の處々に薙の多いのが、何となく慘憺として悲壯な感じを起さしめるのかも知れぬ。肉が少く骨の太いやうな山である。それでも山下の村々はこの靜かな山の裾に平和に棲息してゐると思はれて眼の醒めるやうな山麓の青草と緑樹に埋れて汀を綴つて人家が斷續してゐる。雄松崎は近江舞子の名、遊覽者の眼を欺かず、洗つたやうな清い汀に靜かな小波が寄せてゐる。まだ樹齡のさまで古くなささうな、すんなりとした松林が白砂の上に遠くつゞいてゐる。
 其處から西北にあたる比良の北岳の中腹の岩に深く刻まれた皺があつて、飛瀑が懸つてゐるのが白く見えてゐる。楊梅の瀑といはれてゐる。船の上からそこまで直徑にしても一里以上はあるだらうが、それでも可なり大きく見えてゐるところを思ふと、なか/\高い瀧らしい。
 船は長い間比良岳を仰望しながら走航をつゞけてゐた。更に右舷の方に眸を轉ずると、此の時、湖東の奧の島の三つに整つた山の影はもう稍東南の方に退いて、その前に横はつてゐる
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