沖の島の翠微が赭土色の斷崖面をいつまでも眼印のやうに此方に向けてゐる。
湖面は東北に向つて、愈※[#二の字点、1−2−22]遠く濶け、※[#「水/(水+水)」、第3水準1−86−86]漫《べうまん》たる水は海の如く蒼茫として窮まるところは空と水と遂に一つに融けてその他には何物も認められない。やゝあつて多景島と白石島とが遠く水の上に微かな姿を現はしてきた。
多景島は青螺《せいら》の如く淡く霞み、沖の白石は丁度帆船が二つ三つ一と處にかたまつてゐるやうに見えてゐる。その向うの方にぎざぎざとして入江の影ともつかず、人家の群りともつかず障子に映る影繪のやうに、たゞ輪廓のみ續いてゐるのは彦根から長濱の方であらう。地平線の上は水に煙つてゐて、はつきりとした物が見えないが、その上の方に遠く青空を支へて湖東から湖北の天を繞らしてゐる山の容《すがた》が逶※[#「二点しんにょう+施のつくり」、第3水準1−92−52]《ゐい》として連なつてゐるのが次第に明かに認められてきた。遠く北國の方から來て、北美濃と東淺井郡との境を長城の如く堅めてゐる山脈は北の方に抽《ぬき》んでゝ高く、深い巒《らん》氣を付けてゐるのが金糞ヶ岳といふのであらう。それより山勢大いなる波濤の如く南に走つて伊吹《いぶき》山に到つて強く支へられてゐる。伊吹山は北背に其等の山脈の餘波を堰き止めようとして山容やゝ崩れてゐるが、西南に面した部分は急に鮮やかな傾線を引いて、さながら東國と西國との通路を守るものゝごとく、關ヶ原と思ふあたりの狹隘を俯瞰して峙つてゐる形勢が明かに看取される。東海道を往復する毎に、いつも私の強い興味を惹く山であるが、今日は雨後の澄明な空氣の中に夢の如く淡く薄紫の霞を罩《こ》めて靜かに立つてゐる。比良岳の主峰と同じやうに、その頂にも一團の雲がかゝつて、それが何時までも消えようとしない。頂點がどこまで空に達してゐるか分らない。そこに何だか犯し難い神祕を藏してゐるやうで、高山の威重を示してゐる。傷ましいやうな大きな薙のあるのも見えてゐる。西軍の主將石田三成が戰に破れて、あの山の中の洞窟に潛んでゐたといふのは極めてふさはしいといふ一種の悲壯な感じを表はしてゐる。伊吹山の南の方は暫く山脈が斷絶し、更に關ヶ原低地のある南方に至つて再びもく/\と天に支へるやうに隆起してゐる一團の山塊が古の不破の關を固めてゐた靈仙山である。伊吹山や靈仙山や其等の山々が皆昔時の東山道《とうさんだう》の通路を阨してゐたといふことは一望して明かに肯かれる。琵琶湖は是等の湖東の國境に連なる山脈の眺望と、比良岳の翠巒を仰ぐことがなかつたならば、湖水の風景はどんなに平凡なものであつたか知れない。是等の山々をパノラマの如く雙眸に收めてゐることは、琵琶湖をして恰も中禪寺湖や葦の湖などのごとき、高山の中腹に湛へてゐる火山湖の趣きを成さしめてゐる。それと共に湖水を取り卷いてゐる四圍の地が古來人文の中心に近く、また湖東の地が屡※[#二の字点、1−2−22]戰國時代に在つて英雄の爭覇戰の行はれた史蹟に富んでゐるので、自然がたゞ單純な山河としてゞなく豐かな歴史的の感興を以て裏付けられてゐる。
私は右舷の欄干に凭《もた》れて伊吹山の頂にかゝる雲と、その傷ましい薙の跡とをやゝ暫らく見つめてゐた。船はその間にも進航をつゞけて、白鬚明神の社のある明神岬を※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]つてゐた。明神岬は比良岳の餘脈が比良の北岳から二つに分れて、一つはそのまゝに北に走り一つは本來の比良山脈と殆ど直角を成して湖岸に迫り山崖が汀に突出してゐる處がそれである。そこまで來るともう今まで長い間見て來た比良岳も斜に後に退いて、綿帽子を着けたやうな主峰のみが嚴かに聳えてゐるのが遠く眺められるばかりである。明神岬の鼻を一寸※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]ると大溝の町が水に臨んで立つてゐる。そこから琵琶湖の岸に沿ふて近江國の西北端になつてゐる高島郡の平野が安曇《あど》川を挾んで濶けてゐる。近江聖人の邸址で知られた青柳村の藤樹書院も大溝の港から半道ばかり北に行つた處に在る。明神岬の鬱蒼たる森に至つて盡きてゐる比良の支脈を後にしてから船はやゝ山の眺望から遠ざかつて安曇川の河口に擴がつてゐる平洲を左舷に見て進んでゆくが、それでも比良岳がそのまゝ一直線に北に向つて伸びて出來てゐる蛇谷峰、阿彌陀山などの相應な高度を示してゐる山巒が安曇川流域の平野の果てに屏立して左舷の遠望に景致を添へてゐる。それは丁度二時頃の日盛りで強い日光に照りつけられてゐる其等の山巒には多量の雨氣を含んだ薄墨色の水蒸氣が纏うて眼を威脅するやうに險しい表情をしてゐる。
竹生島《ちくぶしま》は大分遠くから見えてゐたが、その邊まで來ると、一層明かに青い水の上に浮んでゐるのが見えて來た。伊吹山、金糞ヶ岳、それから若狹、越前の國境に繞らしてゐる蜒蜿とした連山も段々明かに認められて來た。賤《しづ》ヶ岳、淺井長政の居城とした小谷山なども指ざされた。そして伊吹山は恰も其等の盟主であるかの如く、頂點のところに白い横雲が捺塗《なす》つたやうにやつぱり引懸つてゐる。天に支へるやうな巨大な體に溢れるほどの感情を表はしながら何といふ強い沈默であらう。頂の雲は今にも動きさうな形をして流れてゐながら、雲も山もそれを見てゐる人間の眼を焦らすかのやうに、彼等は動いたり口を利いたりすることを忘れたのかといひたいほど沈滯してゐる。
饗庭野《あへばの》の陸軍演習地のあるので賑はうてゐる今津の町は、水の上からも、陸軍の白いバラック屋根が多くあるので遠くからそれと知れてゐる。船はそこを最後の歸航地として棧橋を離れると、今まで北に向つてゐた進路を轉じて稍※[#二の字点、1−2−22]北に振つた、東に向つて進んだ。竹生島は船首に當つて段々近寄つて來た。その時分にはもう乘客は殆ど何處の船室にも、甲板にもゐなくなつて、或は私一人であつたかも知れぬ。やがて竹生島の棧橋に上陸したのは午後三時であつた。堅田からそれまで四時間の間飽くことを知らぬ美しい山水を眺めつゞけにして來たのであるが、丁度活動寫眞などを餘り熱心に見てゐると、後で頭痛がしたり精神が疲勞したりすると同じやうに、知らぬ間にひどく神經を使つたと思はれて、さうなくてさへ先達つて京都にゐて二度ばかり劇しい腦貧血を惱んだ後なので、竹生島の棧橋に上陸するとともに頻りに生欠伸が連發して頭が痛み、何とも云へない不快な心持ちになつて來た。その晩は竹生島の寺に一泊するつもりであつたので、ともかく寺務所の一室に通されて暫らく休息した上で、觀音堂や都久夫須麻《つくぶすま》神社などを一順參拜した。いづれも太閤の桃山御殿の一部を移したものとかで、壯麗なる蒔繪の天井や柱が年を經て剥落してゐる。すこし良くなつたと思つた心持がまた前に倍して惡くなつてきたので、觀るのはいい加減にしてまた寺務所の一室に戻つて來て外套にくるまつたまゝ仰けに寢てゐた。頭は壓し潰されるやうに痛む。胸は嘔氣を催ほして少しでも頭を動かすことが出來ぬ。氣も遠くなるやうな心持になつてゐた。そして若し此のまゝ腦溢血にでもなつて死んだらどうなるだらうなどといふやうな雜念が湧いて起つた。それでそこにゐた所化に事由を話し、別棟の寢處に移つてその晩は夕飯も食はず風呂にも入らず、呻吟しながら寢てゐた。それでも一と寢入りして九時頃に眼を覺ますと、頭もやゝ輕く、氣分も大分快くなつてゐた。それで安心して此度寢なほすと、翌朝まで一と寢りに熟睡することが出來た。
湖の西岸は汽船の往復も一日に數囘あるが、湖東の方はずつと汽車が通じてゐるので、從つて船の便は少く、大津と竹生島との間は東※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]りは一日の往復一※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]づゝしかない。琵琶湖の一番奧になつてゐる、もう餘呉《よご》の湖《うみ》に近い鹽津をまだ闇いうちに出帆した船が竹生島に朝の五時三十分に寄航するのである。歸航はぜひとも湖東を※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]つて來ようと志してゐたので五時半の船に乘り遲れたら、また一日竹生島に逗留しなければならぬ。寺男は氣を利かして寢室を覗いて、どうするかと注意してくれたが、強ひて起きられさうだつたけれど、折角まだ二三時間は眠れさうなので、此の快よい睡眠は何物にも代へがたく、私は蒲團の中から聲を出してもう一日延ばすことにした。
午前十時三十分には西まはりをして大津の方に歸つてゆく船があるので、その時はいつそ昨日と同じ風景を眺めて歸らうか、二日續いても三日とは受け合はれない梅雨半ばの此の頃の天候は明日になつてまたどう變るかも知れないとさまざまに迷つてみたが、まゝよ、雨が降らば降れ、雨も又奇なりと思ひあきらめて、遂々その一日は竹生島に逗まることにして、それより舟を雇うて島の周圍を一とまはりしてみる。謠曲の「竹生島」に、
[#ここから1字下げ]
緑樹影沈んで魚木に登る景色あり、月海上に浮んでは兎も浪を走るか、面白の景色や
[#ここで字下げ終わり]
といつてゐるのは實景である。島の周圍は全部岩石を築き上げてそれに生ひ茂つた眞青な苔や一つ葉、擬寶珠など名の知れぬ無數の草がその上に生ひ被さつてゐる。その上に又緑の木々が蓊鬱として繁茂し、瑠璃を碎いて溶かしたやうな美しい眞青の水に暗緑色の影を※[#「酉+焦」、第4水準2−90−41]《ひた》してゐる。深い水の底を鯉や鮒などが泳いでゐるのが、よく透いて見える。頭を上げて岩上を見ると上には驚くほど無數の種類の草木が足を踏み入れる隙もないまでに雜然と密生してゐて、中に櫻、椿、藤、楓などの四季々々を飾る樹木が案外に多い。椿は殊に島の蔭に面した、凄いほど青い水が岩を※[#「くさかんむり/酉+焦」、43−上−2]《ひた》してゐる處に濃緑色の影を翳《かざ》してゐる。舟夫はその椿が眞赤な花を付ける時分や藤の花が長い薄紫の房を水に映す頃の島の美しさを語つた。私にもその時分の美しさがよく想像せられた。琵琶湖もそこまで來ると、若狹、越前の國境に連なつてゐる山脈の餘脈が直ちに湖岸に迫つてゐて、廣い水は其等の斷崖によつて圍《かこま》れてゐるので、中禪寺湖や葦の湖などの火山湖と少しも異らない感じを與へてゐる。
その日は一日さうして孤島に逗《とど》まつて私は又しても退屈さうに湖上を遠く眺めて早く夜が明けて明日になることを思つた。辨天の祠前の舞臺に上つて東の方を見ると、沖は灰色に掻曇つて伊吹山も、たゞ山の輪畫ばかりが幽かに見えてゐる。明日は雨らしい空模樣で、島の根を洗ふ波の音が夕刻に近づくに從つて大きくなつて來たやうである。
頭の調子がどう狂つたか、昨夜は一寸も眠られなかつたので、夜の明けるのを待ちかねて起きいで、體を拭いて衣服を更《あらた》め、五時半に發する汽船をもう五時頃から棧橋の處に降りて行つて待つてゐた。沖は曇つてゐるが、切符を賣つてゐる老人に今日の天氣はどうかと訊くと、「天氣になりますやろ」といふ。雨が降つたら潮が多少荒れるばかりぢやない。坂本から二十五町の杉林の下を叡山まで登つてゆくのが難儀である。昨夜は眠られぬまゝにそんなことばかり氣にかゝつてゐたが、老水夫の經驗によつてその點は安心らしい。やがてブウと汽笛が島の蔭で鳴つて鹽津から出て來た船が着いた。客は私一人かと思つて通ひ船に乘り込んでゐると、寺の高い石段を寶巖寺の老僧が新發意《しんぼち》などに扶けられて、杖を突いて急いで降りて來られる。舟夫に老僧が何處かへゆかれるかと訊くと、何處かへゆかれると答へたが、言葉がよく分らなかつたので、何處へゆくのだらうと思つてゐるうちに老僧はそこに渡した歩板をわたつて舟に入つて來られた。十四五歳の新發意が千代田袋に菓子折くらゐの小さい包みを持ちそへて附いてゐる。私は好い鹽梅に老僧に會ふことが出來た。二晩厄介になつたお禮もいひ、話しに七十幾歳の高齡で、竹生島に小僧さんの時分からずつと定住してゐられるのだといふ。花は咲き鳥は歌ふことがあつても嘗て女人を解せ
前へ
次へ
全3ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
近松 秋江 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング