て靜に滑つてゆくのである。湖水では北風が吹くと晴としてゐる。昨日一日山の上で濛々として咫尺《しせき》を辨ぜぬ淫雨に降り籠められ、今朝は夙《つと》に起きいでゝ二十五町の急阪を驅けるがごとく急ぎ下り、勝手の分らぬ船の乘降に、さらでだに疲れたる頭を無益に惱ましたるそのうへに尚二百里[#「二百里」はママ]の間、いぶせき田舍の泥濘路《ぬかるみみち》を俥に搖られて、ほと/\探勝に伴ふ體苦心苦の辛さを味はひ、強《したた》か幻滅の悲しさを感じてゐたのが、眼の前に開けた美しい湖山の大觀のために、今までの憂苦は全く忘れられて、私の心は嬉々として眼の覺めたごとき悦びに滿ち、或は左舷に立つて眺め、或は右舷に凭つて遠く瞳を放ち、片時も眼を休ませないで、飽くことを知らず刻々に移り變る山の影水の光に見惚れてゐた。ここまで來ると比良比叡の峰つゞきが、適度の距離を置いて一とまとめに雙眸に入つて來た。上空から次第に拭ひ去られた雲は僅かに比叡と比良の頂に白紗を纏ふたごとく殘つてゐたが、正午ごろになつて太陽の光が一層強くなつてくると、やがて比叡の頭にも雲は消えてなくなり、船の北進するにつれて山の影は次第に淡く南に殘り、清楚な
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