さういつて、二度目の、此の方はお茶にしてといふのを稍※[#二の字点、1−2−22]語勢を強めていはれた。ボーイはその通りに老僧には白湯を汲んで薦め、私の方へは茶を煎れて出した。すると、老僧はその茶碗を手にとつて底に一滴も殘さぬやうに仰向いて茶碗を啜り、空になつた茶碗を靜《そつ》と茶托の上に伏せて置かれた。人は平素の行儀を一朝にして改むることは出來ない。書生流の私は茶碗を半分だけ飮み殘した。老僧に眞似てそれを伏せることもならず、そのまゝ茶托とともに卓の上に突出して置いた。舟車の中では大抵の人は通常の家に在るよりも一層行儀を忘れて顧みないものだが、老僧には少しもさういふ風は見えぬ。その時もし私がゐなくなつて老僧が一人きりであつてもその通りに恭謙であつたにちがひない。一椀の食一滴の水も佛恩であるから、これを粗末にしてはならないといふ訓條を恪守《かくしゆ》して、それが今は習ひ性となつてゐるのであらうと思はれた。そのうちにもう船は向岸に近づいたと思はれて船長が入つて來て老僧に挨拶をしていつた。私も起つて老僧にお別れの辭儀をして頭を上げてみると老僧はまだ/\圓い頭を兩|掌《て》に載せて卓の上に額
前へ
次へ
全27ページ中23ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
近松 秋江 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング