る。伊吹山や靈仙山や其等の山々が皆昔時の東山道《とうさんだう》の通路を阨してゐたといふことは一望して明かに肯かれる。琵琶湖は是等の湖東の國境に連なる山脈の眺望と、比良岳の翠巒を仰ぐことがなかつたならば、湖水の風景はどんなに平凡なものであつたか知れない。是等の山々をパノラマの如く雙眸に收めてゐることは、琵琶湖をして恰も中禪寺湖や葦の湖などのごとき、高山の中腹に湛へてゐる火山湖の趣きを成さしめてゐる。それと共に湖水を取り卷いてゐる四圍の地が古來人文の中心に近く、また湖東の地が屡※[#二の字点、1−2−22]戰國時代に在つて英雄の爭覇戰の行はれた史蹟に富んでゐるので、自然がたゞ單純な山河としてゞなく豐かな歴史的の感興を以て裏付けられてゐる。
私は右舷の欄干に凭《もた》れて伊吹山の頂にかゝる雲と、その傷ましい薙の跡とをやゝ暫らく見つめてゐた。船はその間にも進航をつゞけて、白鬚明神の社のある明神岬を※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]つてゐた。明神岬は比良岳の餘脈が比良の北岳から二つに分れて、一つはそのまゝに北に走り一つは本來の比良山脈と殆ど直角を成して湖岸に迫り山崖が汀に突出してゐる處がそれである。そこまで來るともう今まで長い間見て來た比良岳も斜に後に退いて、綿帽子を着けたやうな主峰のみが嚴かに聳えてゐるのが遠く眺められるばかりである。明神岬の鼻を一寸※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]ると大溝の町が水に臨んで立つてゐる。そこから琵琶湖の岸に沿ふて近江國の西北端になつてゐる高島郡の平野が安曇《あど》川を挾んで濶けてゐる。近江聖人の邸址で知られた青柳村の藤樹書院も大溝の港から半道ばかり北に行つた處に在る。明神岬の鬱蒼たる森に至つて盡きてゐる比良の支脈を後にしてから船はやゝ山の眺望から遠ざかつて安曇川の河口に擴がつてゐる平洲を左舷に見て進んでゆくが、それでも比良岳がそのまゝ一直線に北に向つて伸びて出來てゐる蛇谷峰、阿彌陀山などの相應な高度を示してゐる山巒が安曇川流域の平野の果てに屏立して左舷の遠望に景致を添へてゐる。それは丁度二時頃の日盛りで強い日光に照りつけられてゐる其等の山巒には多量の雨氣を含んだ薄墨色の水蒸氣が纏うて眼を威脅するやうに險しい表情をしてゐる。
竹生島《ちくぶしま》は大分遠くから見えてゐたが、その邊まで來ると、一層明かに青い水の上に浮んでゐるのが見えて來た。伊吹山、金糞ヶ岳、それから若狹、越前の國境に繞らしてゐる蜒蜿とした連山も段々明かに認められて來た。賤《しづ》ヶ岳、淺井長政の居城とした小谷山なども指ざされた。そして伊吹山は恰も其等の盟主であるかの如く、頂點のところに白い横雲が捺塗《なす》つたやうにやつぱり引懸つてゐる。天に支へるやうな巨大な體に溢れるほどの感情を表はしながら何といふ強い沈默であらう。頂の雲は今にも動きさうな形をして流れてゐながら、雲も山もそれを見てゐる人間の眼を焦らすかのやうに、彼等は動いたり口を利いたりすることを忘れたのかといひたいほど沈滯してゐる。
饗庭野《あへばの》の陸軍演習地のあるので賑はうてゐる今津の町は、水の上からも、陸軍の白いバラック屋根が多くあるので遠くからそれと知れてゐる。船はそこを最後の歸航地として棧橋を離れると、今まで北に向つてゐた進路を轉じて稍※[#二の字点、1−2−22]北に振つた、東に向つて進んだ。竹生島は船首に當つて段々近寄つて來た。その時分にはもう乘客は殆ど何處の船室にも、甲板にもゐなくなつて、或は私一人であつたかも知れぬ。やがて竹生島の棧橋に上陸したのは午後三時であつた。堅田からそれまで四時間の間飽くことを知らぬ美しい山水を眺めつゞけにして來たのであるが、丁度活動寫眞などを餘り熱心に見てゐると、後で頭痛がしたり精神が疲勞したりすると同じやうに、知らぬ間にひどく神經を使つたと思はれて、さうなくてさへ先達つて京都にゐて二度ばかり劇しい腦貧血を惱んだ後なので、竹生島の棧橋に上陸するとともに頻りに生欠伸が連發して頭が痛み、何とも云へない不快な心持ちになつて來た。その晩は竹生島の寺に一泊するつもりであつたので、ともかく寺務所の一室に通されて暫らく休息した上で、觀音堂や都久夫須麻《つくぶすま》神社などを一順參拜した。いづれも太閤の桃山御殿の一部を移したものとかで、壯麗なる蒔繪の天井や柱が年を經て剥落してゐる。すこし良くなつたと思つた心持がまた前に倍して惡くなつてきたので、觀るのはいい加減にしてまた寺務所の一室に戻つて來て外套にくるまつたまゝ仰けに寢てゐた。頭は壓し潰されるやうに痛む。胸は嘔氣を催ほして少しでも頭を動かすことが出來ぬ。氣も遠くなるやうな心持になつてゐた。そして若し此のまゝ腦溢血にでもなつて死んだらどうなるだらうなどといふやうな雜念が湧いて起つた。そ
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