れでそこにゐた所化に事由を話し、別棟の寢處に移つてその晩は夕飯も食はず風呂にも入らず、呻吟しながら寢てゐた。それでも一と寢入りして九時頃に眼を覺ますと、頭もやゝ輕く、氣分も大分快くなつてゐた。それで安心して此度寢なほすと、翌朝まで一と寢りに熟睡することが出來た。

 湖の西岸は汽船の往復も一日に數囘あるが、湖東の方はずつと汽車が通じてゐるので、從つて船の便は少く、大津と竹生島との間は東※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]りは一日の往復一※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]づゝしかない。琵琶湖の一番奧になつてゐる、もう餘呉《よご》の湖《うみ》に近い鹽津をまだ闇いうちに出帆した船が竹生島に朝の五時三十分に寄航するのである。歸航はぜひとも湖東を※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]つて來ようと志してゐたので五時半の船に乘り遲れたら、また一日竹生島に逗留しなければならぬ。寺男は氣を利かして寢室を覗いて、どうするかと注意してくれたが、強ひて起きられさうだつたけれど、折角まだ二三時間は眠れさうなので、此の快よい睡眠は何物にも代へがたく、私は蒲團の中から聲を出してもう一日延ばすことにした。
 午前十時三十分には西まはりをして大津の方に歸つてゆく船があるので、その時はいつそ昨日と同じ風景を眺めて歸らうか、二日續いても三日とは受け合はれない梅雨半ばの此の頃の天候は明日になつてまたどう變るかも知れないとさまざまに迷つてみたが、まゝよ、雨が降らば降れ、雨も又奇なりと思ひあきらめて、遂々その一日は竹生島に逗まることにして、それより舟を雇うて島の周圍を一とまはりしてみる。謠曲の「竹生島」に、
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緑樹影沈んで魚木に登る景色あり、月海上に浮んでは兎も浪を走るか、面白の景色や
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 といつてゐるのは實景である。島の周圍は全部岩石を築き上げてそれに生ひ茂つた眞青な苔や一つ葉、擬寶珠など名の知れぬ無數の草がその上に生ひ被さつてゐる。その上に又緑の木々が蓊鬱として繁茂し、瑠璃を碎いて溶かしたやうな美しい眞青の水に暗緑色の影を※[#「酉+焦」、第4水準2−90−41]《ひた》してゐる。深い水の底を鯉や鮒などが泳いでゐるのが、よく透いて見える。頭を上げて岩上を見ると上には驚くほど無數の種類の草木が足を踏み入れる隙もないまでに雜然と密生してゐて、中に櫻、椿、藤、楓などの四季々々を飾る樹木が案外に多い。椿は殊に島の蔭に面した、凄いほど青い水が岩を※[#「くさかんむり/酉+焦」、43−上−2]《ひた》してゐる處に濃緑色の影を翳《かざ》してゐる。舟夫はその椿が眞赤な花を付ける時分や藤の花が長い薄紫の房を水に映す頃の島の美しさを語つた。私にもその時分の美しさがよく想像せられた。琵琶湖もそこまで來ると、若狹、越前の國境に連なつてゐる山脈の餘脈が直ちに湖岸に迫つてゐて、廣い水は其等の斷崖によつて圍《かこま》れてゐるので、中禪寺湖や葦の湖などの火山湖と少しも異らない感じを與へてゐる。
 その日は一日さうして孤島に逗《とど》まつて私は又しても退屈さうに湖上を遠く眺めて早く夜が明けて明日になることを思つた。辨天の祠前の舞臺に上つて東の方を見ると、沖は灰色に掻曇つて伊吹山も、たゞ山の輪畫ばかりが幽かに見えてゐる。明日は雨らしい空模樣で、島の根を洗ふ波の音が夕刻に近づくに從つて大きくなつて來たやうである。

 頭の調子がどう狂つたか、昨夜は一寸も眠られなかつたので、夜の明けるのを待ちかねて起きいで、體を拭いて衣服を更《あらた》め、五時半に發する汽船をもう五時頃から棧橋の處に降りて行つて待つてゐた。沖は曇つてゐるが、切符を賣つてゐる老人に今日の天氣はどうかと訊くと、「天氣になりますやろ」といふ。雨が降つたら潮が多少荒れるばかりぢやない。坂本から二十五町の杉林の下を叡山まで登つてゆくのが難儀である。昨夜は眠られぬまゝにそんなことばかり氣にかゝつてゐたが、老水夫の經驗によつてその點は安心らしい。やがてブウと汽笛が島の蔭で鳴つて鹽津から出て來た船が着いた。客は私一人かと思つて通ひ船に乘り込んでゐると、寺の高い石段を寶巖寺の老僧が新發意《しんぼち》などに扶けられて、杖を突いて急いで降りて來られる。舟夫に老僧が何處かへゆかれるかと訊くと、何處かへゆかれると答へたが、言葉がよく分らなかつたので、何處へゆくのだらうと思つてゐるうちに老僧はそこに渡した歩板をわたつて舟に入つて來られた。十四五歳の新發意が千代田袋に菓子折くらゐの小さい包みを持ちそへて附いてゐる。私は好い鹽梅に老僧に會ふことが出來た。二晩厄介になつたお禮もいひ、話しに七十幾歳の高齡で、竹生島に小僧さんの時分からずつと定住してゐられるのだといふ。花は咲き鳥は歌ふことがあつても嘗て女人を解せ
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