夏の姿は、さながら薄化粧を施したやうに緑の上を白く霞に包まれてゐる。
船が堅田を出て初めての寄航地である南濱に寄つて、そこから再び沖に出ると比叡の山影はいよ/\淡く、逢坂《あふさか》山からずつと左に湖南の方に連なつてゐる山脈《やまなみ》とともに段々と遠く水の彼方に薄れていつた。そして左舷には、蜒蜿として湖西の天を蔽ふて聳えてゐる比良岳がその雄大なる山容の全幅を雙眸の中に展開して來た。雨後の翠巒《すゐらん》は一際鮮かで、注意してよく見てゐると、峰は大きく二つに分れてその二つがまた處々深い溪によつて幾つかの峰に分れてゐる。雲は山の面から去つてしまつたが、一番高い主峰だけには綿を千切つたやうな灰白色の雲が頂にかかつたまゝ何時までも動かうともしない。それが如何にも主峰は主峰だけの威嚴を示してゐるかのやうで雲に隱れた部分は距離が遠いせゐか清楚な夏の色も暗緑色に掻き曇つて恐しさうな感情を與へてゐる。雄松崎《をまつざき》の白沙青松は、主峰が大きな溪によつて二つに分れてゐる處から流れ落ちて來る急角度の傾斜を成した比良川の溪流が直ちに湖水に迫つて汀に土砂を押流したところに出來てゐる。山は攝津の六甲山などと、同じやうに花崗岩質の山と思はれて、船の上からも白い砂の盛れ上つてゐる溪流の水路が明かに見えてゐる。比良岳はその高標の割に何となく雄偉の感じに富んだ山である。一つは山の處々に薙の多いのが、何となく慘憺として悲壯な感じを起さしめるのかも知れぬ。肉が少く骨の太いやうな山である。それでも山下の村々はこの靜かな山の裾に平和に棲息してゐると思はれて眼の醒めるやうな山麓の青草と緑樹に埋れて汀を綴つて人家が斷續してゐる。雄松崎は近江舞子の名、遊覽者の眼を欺かず、洗つたやうな清い汀に靜かな小波が寄せてゐる。まだ樹齡のさまで古くなささうな、すんなりとした松林が白砂の上に遠くつゞいてゐる。
其處から西北にあたる比良の北岳の中腹の岩に深く刻まれた皺があつて、飛瀑が懸つてゐるのが白く見えてゐる。楊梅の瀑といはれてゐる。船の上からそこまで直徑にしても一里以上はあるだらうが、それでも可なり大きく見えてゐるところを思ふと、なか/\高い瀧らしい。
船は長い間比良岳を仰望しながら走航をつゞけてゐた。更に右舷の方に眸を轉ずると、此の時、湖東の奧の島の三つに整つた山の影はもう稍東南の方に退いて、その前に横はつてゐる沖の島の翠微が赭土色の斷崖面をいつまでも眼印のやうに此方に向けてゐる。
湖面は東北に向つて、愈※[#二の字点、1−2−22]遠く濶け、※[#「水/(水+水)」、第3水準1−86−86]漫《べうまん》たる水は海の如く蒼茫として窮まるところは空と水と遂に一つに融けてその他には何物も認められない。やゝあつて多景島と白石島とが遠く水の上に微かな姿を現はしてきた。
多景島は青螺《せいら》の如く淡く霞み、沖の白石は丁度帆船が二つ三つ一と處にかたまつてゐるやうに見えてゐる。その向うの方にぎざぎざとして入江の影ともつかず、人家の群りともつかず障子に映る影繪のやうに、たゞ輪廓のみ續いてゐるのは彦根から長濱の方であらう。地平線の上は水に煙つてゐて、はつきりとした物が見えないが、その上の方に遠く青空を支へて湖東から湖北の天を繞らしてゐる山の容《すがた》が逶※[#「二点しんにょう+施のつくり」、第3水準1−92−52]《ゐい》として連なつてゐるのが次第に明かに認められてきた。遠く北國の方から來て、北美濃と東淺井郡との境を長城の如く堅めてゐる山脈は北の方に抽《ぬき》んでゝ高く、深い巒《らん》氣を付けてゐるのが金糞ヶ岳といふのであらう。それより山勢大いなる波濤の如く南に走つて伊吹《いぶき》山に到つて強く支へられてゐる。伊吹山は北背に其等の山脈の餘波を堰き止めようとして山容やゝ崩れてゐるが、西南に面した部分は急に鮮やかな傾線を引いて、さながら東國と西國との通路を守るものゝごとく、關ヶ原と思ふあたりの狹隘を俯瞰して峙つてゐる形勢が明かに看取される。東海道を往復する毎に、いつも私の強い興味を惹く山であるが、今日は雨後の澄明な空氣の中に夢の如く淡く薄紫の霞を罩《こ》めて靜かに立つてゐる。比良岳の主峰と同じやうに、その頂にも一團の雲がかゝつて、それが何時までも消えようとしない。頂點がどこまで空に達してゐるか分らない。そこに何だか犯し難い神祕を藏してゐるやうで、高山の威重を示してゐる。傷ましいやうな大きな薙のあるのも見えてゐる。西軍の主將石田三成が戰に破れて、あの山の中の洞窟に潛んでゐたといふのは極めてふさはしいといふ一種の悲壯な感じを表はしてゐる。伊吹山の南の方は暫く山脈が斷絶し、更に關ヶ原低地のある南方に至つて再びもく/\と天に支へるやうに隆起してゐる一團の山塊が古の不破の關を固めてゐた靈仙山であ
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