もう何年という長い年月の間私の方からさんざん尽して心配していることが、いつまで経《た》っても少しも埒《らち》があかぬので、一体どうなっているかと、随分|厳《きび》しいことを、手紙でいってよこしたことはたびたびあります。しかし、それは私としては当然のことで、もちろん、あんな商売をしている女に山ほど銭を入れ揚げたって、それは入れ揚げる方が愚ではあるが、たとい幾ら泥水稼業《どろみずかぎょう》の女にしても、ただむやみに男を騙《だま》して金を捲《ま》き上げさえすればいいというわけのものでもありますまい。私がこの藤村の娘に対してしたことを最初からずっとお話をするとこうなのです。まあ聴いて下さい」
と、いって、対手が妙に生齧《なまかじ》りの法律口調で話しかけるのを、こちらは、わざと捌《さば》けた伝法《でんぽう》な口の利《き》きようになって、四、五年前からの女との経緯《いきさつ》を、その男には、口を挿《さ》し入れる隙もないくらいに、二時間ばかり、まるで小説の筋でも話して聴かすように、ところどころ惚気《のろけ》まで交えて、立てつづけに話してきかせた。私の顔は熱して、頬《ほお》には紅《くれない》が潮《さ》してきた。
するとその男は、だんだん私の話に釣《つ》り込まれてしまい、初めの変に四角張っていた様子はいつか次第に打ち融けて、私の話が惚気ばなしのようになって来ると、たまらず、噴《ふ》き出しながら、
「君は女に甘い。君は下手《へた》だ。そんな君、女にただ遠方から金を送るということがあるものか。そういう時には君が自分で金を持って京都に来て、さあ、金はここに用意してある。廃めて自分の方に来るかどうするかと向うの腹を確かめて、こっちのいうことを聴くなら、金を出してやろうという調子で行かにゃ駄目《だめ》じゃ」と意見するようにいって、笑っている。
私はまた、半ばはわざとそうして見せるところもあったが、男が笑っているのを見て、むっとなり、あくまでも真剣な調子で、
「いや、笑いごとじゃありません。また惚気を言うつもりでもありません。他人から見れば馬鹿と見えるくらい、およそそれほどまでに、私は、相手を信じきって尽して来たことをお話するのです。惚気を聴かすようですが、それも私たちの間がそれほどまでに打ち融けておったことを説明しているのです。それにもかかわらず、……」と、なお後を継ごうとすると、その男は、一層笑い出して、
「いや、君は馬鹿だ。はははは君、出ている女は君、君一人だけが客じゃない、ほかにも多勢そんな男があるもの……」と笑い消してしまう。
母親も傍から口を出して、
「世話になった人はあんたはんばかりやおへん。まだまだもっと他に、いうに言えんお世話になったお人がありますのどす」と、その男にも聴いてくれというようにいう。
「うむ、そりゃそうやろとも」男はもっともというようにうなずいている。
私は、それを不快に思いながら聴いていたが、
「そりゃ、私のほかに、もっと世話になっていた男があるかも知れない。何も自分一人が色男のつもりでいたわけじゃないが、自分もこの年になって、女に引っ掛かったのは、これが初めてじゃない。随分女の苦労は東京にいてたびたびして来ているんだ。しかし今度のような御念の入った騙され方をしたのは初めてだ。それに何ぞや、私が嚇かしたために気が狂ったなぞと、聞いて呆《あき》れる。それどころじゃない、私の方であの女のことを思いつめて患わぬが不思議なくらいに自分でも、思っているのです。私が嚇かしたためにそんな病気になったという苦情があるなら私の方で悦《よろこ》んで引き取って癒してやりましょう。しかし、さっきのお話で銭を五百円出せというのはどういうわけです?」
きっぱり、そういうと、その男はまたうなずいて、妙な東京弁を交えながら、
「うむ、そりゃ君の心持も私にはようわかっている。だから、病気になったことについては、情状を酌量《しゃくりょう》して、どうしてくれとは言わぬから、女のことは諦《あきら》めてもらいたい。それでも、どうしても君の方へ連れて来たいというなら、五百五十円か、それだけの金を君の方から出してもらわねばならん。その金が出来るか」
人を馬鹿扱いにして宥《なだ》めるような、また足もとを見透かして軽蔑《けいべつ》したようなことをいう。私は、情状を酌量するもあったものではないと心の中でその浅薄な言い草を腹を立てるよりも笑いながら、
「へえ、五百何十円! それはどうした金です?」と訊き返しながら、今までさんざん人を騙して、金を搾《しぼ》れるだけ絞っておきながら――もっとも本人は何にも知らずにいるのかも知れぬが――どこまで虫の好いことを言うと思った。
すると、母親はまた興奮した顔で傍から口を出して、
「その金はどうした金て、あんたはん、まだ松井さんにあの娘《こ》の借金がおすがな。あんたはんも私のところにおいやした時に、何度もあの娘に訊いておいやしたやおへんか、まだたんとの借金おした。その金を返さんことには、あんたはん松井さんかて、あの娘を廃めさしてくりゃはりゃしまへんがな」真顔でいう。
「その借金を五百五十円今度親類から出してもらったのだ」傍の男が後を受け取って言う。
私には、どうも、はっきり腑《ふ》に落ちぬ。
「へえ?……しかし、この間私が松井へ行って、お繁さんに会って訊いた時には、そんなに借金はもうなさそうな口ぶりであったが」
「あの人何も知らはりゃしまへん。ないどころか、まだ仰山あって、あの娘はそんな病気になる……親一人、子ひとりの私の身になったら、あんたはん、泣くに泣かりゃしまへんがな。それで南山城《みなみやましろ》の旧《ふる》い親類に頼んで、証文書いて、それだけの金を今度貸してもろうたのどす」母親は、傍の男にも訴え顔にいう。
私は、黙ってそれを聴いていたが、なるほど彼女たちの先祖はもと府下の南山城の大河原《おおかわら》というところであったとは、自分が女を知って間もない時分から聞いていることであった。その大河原というのは関西線の木津川の渓流《けいりゅう》に臨んだ、山間の一駅で、その辺の山水は私のつとに最も好んでいるところで、自分の愛する女の先祖の地が、あんな景色の好いところであるかと思うと、一層その辺の風景が懐《なつ》かしい物に思われていたのであった。そして女の祖父に当る人間が、彼女の父親の弟分にして、も一人他人の子を養子にしていたが、祖父が死に、今からざっと三十年も前に父親が一家を挙《あ》げて京都に移って来る時分に、所有していた山林田畑をその義弟の保管に任しておくと、彼はその財産を全部|失《な》くしてしまい、自分は伊賀の上野在の農家に養子に行って、なお存命である。ほかに兄弟とてなかった父方の親類といえば言われるのはそこきりで、血こそ繋《つな》がっていないが今でも親類づき合いをしているのであった。……それだけのことはたびたび母子の者から聴かされて自分も知っているが、その他に南山城に、不断親しい往来をしないでいて、突然金を貸してくれるようたところがありそうに思えぬ。
「ヘえ?……そんな親類があるのですか。伊賀の上野にはあると、あなた方から私もかねて聞いていたが」と、私が訝《いぶか》しそうにいうと、母親は、引ったくるような調子で、
「あんたはん、そんな委しいこと知らはりゃしまへん。そんな親類ありますがな」という。
「へえ? 何という親類です? やっぱり大河原の?」と重ねて訊くと、傍の男は、またそれを受け取って、
「自分で、藤村の親類で、やっぱり藤村利平という者だというとった。その人間がわざわざ私のところに来て依頼して帰った」
「あんたはん、あんな遠いところからそのことで出て来てくれたのどす」二人は調子の合ったことをいっている。
私も、心の中で、ああいうのだから、そんな親類があるのかも知れぬと思った。
「じゃ、私がその藤村利平という人に一応会って話しましょう」
「いや、もうこの間ちょっと来て、すぐ帰ってしもうた」といってしまう。
ついに、どちらのいい分も要領を得ずにそんな取り留めのない話になったが、私の心は、どうあっても女を思い絶たない、女に会わなければ承知しないが腹一ぱいで、たといこの天地が摧《くじ》けるとも女を見なければ気が済まぬのである。それで、とうとう三、四時間も話し込んでいる内に暗くなってしまったので、その男は、忙しいといって立ちそうにするのを、私はどこまでも一度女に会って、差向いで納得するような話をしなければ何といってもこのままに済ますわけにはゆかぬといい張った。
すると、母親もその男も遅《おそ》くなって心が急《せ》くのと両方で、
「そやから、病気さえ良うなったら、あんたはんにも会わせますいうてるやおまへんか」
「きっと会わせますな」
ということにして、二人は帰った。
八
この間母親と一緒に来た小村という男が、十日か十五日経ったら会わせましょうと受け合ったので、自分もそれで幾らか安心して、なるべく他のことに気をまぎらすように努めながら、その十日間の早く経つのを待っていた。そして約束の十日が過ぎると、もうそのことばかりが考えられて心が急くので、宿からあまり遠くないところと聞いていた、その小村の家を訪ねて往って、この間母親と一緒に来た時に聴き残した、もっと委しいことをあれこれと訊ねてみた。そして、金を出したのはやっぱり南山城の大河原|字《あざ》童仙房《どうせんぼう》というところの藤村利平という人間であって、その人間が、自分の事務に携わっている室町竹屋町の法律事務所にわざわざ訪ねて来て、親戚《しんせき》関係の藤村の娘のことを依頼していったのである。大河原の童仙房というところにそういう人間があるかどうか、自分は委しいことは知らぬが、事務所の方には四、五年前に他の事件を依頼して来たことがあるので、今度はその縁故で来たのである、という。
私は、それを、この間はじめて聞いた時から幾度となく疑ってみた。そんな親類があって、こんどそれだけの金を出してくれるくらいならば、そもそもあんな卑しい境涯《きょうがい》に身を沈めない前に泣きついて行くはずである。けれども、そういう親類があるというから、あるいはそうかも知れぬ。そして、
「もう、あれからしばらく経ったから、病気も大分良くなったでしょう。私自分で一遍往って様子を見て来たいと思うんですが」というと、小村は口をきくよりも先きに頭振《かぶ》りをふって、
「いやいやまだなかなかそんなどころでない。母親の話ではどうも良くないらしい」という。
「とにかく、それでは私が自分で往ってみましょう」といって、女の静養しているという山科《やましな》の方の在所へ往く道順や向うのところを委しく訊ねると、小村は、君が独《ひと》りで往ったのではとても分らない、ひどく分りにくいところだといっていたが、それでも強いてこちらが訊くので、山科は字小山というところで、大津ゆき電車の毘沙門《びしゃもん》前という停留場で降りて、五、六町いった百姓家だという。姓はときくと、さあ姓は、自分も一度母親に連れられて一度行ったきりでつい気がつかなかったが、やっぱり藤村といったかも知れぬという。
まるで雲を掴《つか》むような当てのないことであるが、私はそれから小村方を出て、寒い空に風の吹く砂塵《さじん》の道を一心になって、女に食べさすために口馴染《くちなじ》みの祇園のいづ宇の寿司《すし》などをわざわざ買いととのえて三条から大津行きの電車に乗った。小村のいった毘沙門前の停留場というのは、大津街道の追分からすこし行くとすぐなので、そこで電車を降りて、踏切番をしている女に小山というところへ行くのはどう往ったらよいかと訊ねると、女は合点のいかぬように、
「小山はここから五、六町やききまへんなあ。あこに見えるのが小山どすよって、一里もっとおすやろ」といって指さす方を見ると、田圃《たんぼ》の向うの逢阪山《おうさかやま》の峰つづきにあたる高い山の麓《ふもと》の方に冬の日を浴びて人家の散らばっている村里がある。私は、あそこま
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