れないためにほとんど京都中を探《さが》して歩いていたことを怨《うら》みまじりに話して、
「そして、今少しは良い方なのですか、どんなです? 私も一遍様子を見たいです」と、いうと、母親は、それを遮《さえぎ》るような口吻《こうふん》で、
「今もう誰にも会わしてならんとお医者さんがいわはりますので、どなたにも会わせんようにしています。仲の好い友達が気の毒がって、見舞いに行きたいいうてくりゃはりますのでも、みんな断りいうてるくらいどすよって。あの病気は薬も何もいらんさかい、ただじっと静かにしてさえおけばええのやそうにおす。この二、三日やっとすこし落ち着いて来たとこどす」
「ああそうですか。何にしても心配です。……そして、今ひとりで静かに寝ていますか」私は、どうかして、よそながらにでも、そうっと様子を見たそうにいうと、母親は、また一生懸命に捲《まく》し立てるような調子で、
「ほて、今、京都におらしまへんのどす」
「えッ、あそこに寝ているんじゃないんですか。そして、どこにいるんです?」
「違います。あそこは、あんたはん、よその金持ちのお婆さんがひとりで隠居しておいでやすところどす。もうお年寄りのことどすさかい、この間からえらい病気でむつかしい言うて息子はんたち心配してはりますところへ、知った人さんから頼まれて私が付添いに来てますのどす。そしてあの娘は遠いところの親類に預けてしまいました」母親がおろおろ声で誠しやかにそういうので、私は心の中で、道理で、取ってもつかぬ飯田という表札が出ているのである。そして、そんな精神に異状のある、たった一人きりの娘の傍に付き添うていないで、他人の年寄りの病人に付き添うているのを不思議に思いながら、
「遠い親類に預けた!……あんた、そしてまたなぜ傍に付いて介抱してやらないのです?」
「あんたはん、私が傍について介抱してやりとうても、あの娘《こ》がそんな病気で、たんとお金《かね》がかかりますよって、私が人さんの家へ雇われていてでも少しくらいのお金を儲《もう》けんことにはどもならしまへんがな」母親は泣くようにいう。
 私はつくづくと彼ら母子《おやこ》の者の世にも薄命の者であることを思いながら、眉《まゆ》を顰《ひそ》めるようにして、
「あんた、銭《かね》を儲けなければならないなんて、それは何とか出来るじゃありませんか。あんたただ一人きりの大切な娘がそんな一通りならぬ病気をしているのに、傍に付いていて介抱してやらないということがありますか」と小言をいうようにいうと、母親は、少し顔を和らげて、
「ええ、私も付いていてやりたいは山々どすけど、今いうとおり、医者に見せることもいらん、薬も飲まないでもええ、ただ静かにしておりさえすりゃ好えのやそうにおすさかい、親類のおかみさんが、お母はん、もうちょっとも心配することはない、確かに癒してあげますよって、安心しといでやすいうてくりゃはりますので、そこへ委《まか》せてあります」
「遠い親類て、どこです?」
 そういって訊ねても、母親ははっきりどこということをいわずに、ただ、
「ずっと遠いところどす。田舎の方どす」という。
「田舎て、どこの田舎です? お母はん、あなたにも、あんなにいうておったじゃありませんか、私と一処に家を持って、お園さんが廃《や》めるまで待っていましょうって。そんな病気をなぜ私に知らしてくれなかったのです」
 私が、怨言《うらみごと》まじりに心配して訊くので、母親も返事を否むわけにも行かず、折々考えるようにしながら、「あんたはんにも一遍相談したい思いましたけど、そうしておられしまへんがな。そんな病気どすよって。田舎というのは京から二、三里離れたお百姓の家どす。私の弟の家どすさかい、そこの嫁はんが、ほん深切にしてくりゃはりますよって」
「二、三里の田舎じゃ、あんまり遠い家でもありません」
「私も、二、三日前にちょっと行って来たきり、こちらの御隠居さんが病院に入ろうかどうしようかいうてはりますくらいで、少しも手が引けませんよって、一遍あとの様子を見に行かんならん思うてもまだ、あんたはん、よう往かれまへんがな。私も、あんたはんがおいでやしたんで、今家を黙って出て来ましたよって、早う去《い》なんと、年寄りの病人さんが、用事があるといけまへんさかい……」
 母親は鼻声で、あっちもこっちも心のせくように言う。私は一層同情に堪えない心持で、
「いくら、あんた、親類に預けて安心だといって、一人の親が一人の娘の病気の世話をしないで、よその他人の介抱に雇われているということがあるものですか。まあ、今ここで委《くわ》しい話も出来ませんから、何とか繰り合わして暇ができたら、お母はん一遍今度の私の宿まで来て下さい。そして、もっとくわしい病気の様子も訊きたいし、いろいろな御相談もしましょう」
 そういって、宿の名とところとをくわしく教えると、母親は少し考えるようにして、明日はちょっと都合が悪くてゆけないから明後日《あさって》はきっと訪ねて行きますという。その約束を堅めて、
「あんたはんもまた風邪ひかんように早う往んでお休みやす」
「お母はんもあまり心配せんと。そのうえ自分がまた患《わずら》ったら困りますよ」
 挨拶《あいさつ》を交わして、そのままそこで立ち別れた。日はもうとっぷり暮れて、寒い寒い乾《かわ》いた夕風が薄暗《うすやみ》の中を音もなく吹いていた。

     七

 母親の居処が知れて、まず一と安心したものの、路次の出口の女房のはなしでは、つい五、六日前に先の二階借りのところから引き移って行ったという。それを母子の者はなぜ私に対して隠していたか、考えて見ると水くさいしうちである。それにさっき飯田と表札を打った家の潜り戸を開けて母親が中から出て来ながら、ちょうどこちらが押し入ってゆこうとするのを先廻りをして入れまいとでもするような様子をしたのが疑ってみればみるほど変である。まあ、しかし、そんなことをあくどく根問《ねど》いせぬ方が美しくっていい、委細は明後日宿へ訪ねて来た時に、よくわかるように、なんどりと話してみよう、と、それからそれへと、疑ってみたり、また思いなおして安心してみたりしながら宿へ帰って来た。
 それから中一日置いて、約束の明後日になって、今に来るかくるかと一日どこへも出ず晩まで待っていたけれど母親は訪ねて来ないので、とうとう待ちあぐねて、日暮れ方にまたこちらからそこまで出かけて往ってみた。と、一昨日《おととい》見た飯田と誌した表札は取りはずしてしまって、相変らず潜戸は寂然《しいん》と閉まっている。ややしばらくそのままそこに佇《たたず》んで思案をしていると、すぐ左隣りの二十七、八のおかみさんが、入口から顔を出して、
「お隣りはもうお留守どっせ」という。
「ああそうですか。もうお留守て、誰もいないのですか」と重ねて訊くと、
「ええ、私、どやよう知りませんけど、何でも病人さんが、えらい悪うて入院してはりますとかいうて、お婆さんも昨日付いて行かはりまして、今どなたもいやはりゃしまへん。何や知らん、お婆さんこの二、三日えらい忙しそうにいうてはりました」という。
 私は、何だか狐《きつね》につままれたようで、茫然《ぼうぜん》としていたが、そういえば、母親が一昨日話していた隠居のお婆さんが入院したというのかも知れぬと思いながら、なおそこを立ち去りかねて、一、二度表から潜り戸を引っ張ってみたり、※[#「木+靈」、第3水準1−86−29、443−上−15]子窓《れんじまど》の磨《す》り硝子《ガラス》の障子の隙《すき》から家の中を窺いてみようとしたけれど、隣家《となり》の女房が見ているので、押してそうすることもならず、そのまま引き返して路次を出て来た。そして群疑《ぐんぎ》はまた雲のごとく湧《わ》き上った。けれども、母親のいったように付き添うている隠居の婆さんと、自分の娘と二人の病人を持っているのが真実ならば、急《せわ》しい道理である。今日は私を訪ねるという約束が一日二日延びても無理はないと、また思い直して、悄然《しょうぜん》として宿の方に戻ってきた。
 その翌日《あくるひ》、たしかに当てにはならぬが、もしか今日は来はせぬかと、また一日外へ出ぬようにして心待ちに待ちながら、不安と疑いとに悩まされて欝《ふさ》ぎ込んでいると、二、三時ごろになって、宿の者が、お年寄りの御婦人の方がお見えになりましたと知らして来たので、とうとう来たなと、すぐ通してくれるようにいって待っていると、表の方から、長い廊下を伝うて部屋に入って来たのは、母親のほかに今一人、かつて見も知らぬ、人相がはなはだ好くない五十余りの、背のひょろ高い、痩《や》せぎすの男である。見ると蒼白《あおじろ》い顔色に薄い痘痕《あばた》がある。
 私はその男の様子を見ると同時に、はっとした感じが頭に閃《ひらめ》いた。それで、じっと心を落ち着けて、態度を崩《くず》さぬようにしながら、平らやかな顔をしてわざと丁寧に一応の挨拶を交わしてみると、その男は懐中から一枚の名刺を取り出して私の前に差し出しながら、
「私はこういう者です」という。
「ああそうですか」といいつつ、それを手に取り上げて読んでみると、「京都市何々法律事務所事務員小村|何某《なにがし》」と仰山に書いている。私は、
「ああそうですか」と重ねてうなずいて見せたがこんな男が二人や三人組んで来たくらいで、びくともするのじゃないが、それにしても一昨々日《さきおととい》の晩、母親と立ち話をして別れた時にも、自分はどこまでも人情ずくで、真実|母子《おやこ》二人の者の身を哀れに思ったのであった。そして、哀れに思えばこそ一人|愛《いと》しんで長い間尽していたのである。それゆえたとい精神に異状を来たしていようが気狂《きちが》いであろうが、あんな繊美《うつく》しい女が狂人になっているとすれば、そんな病人になったからといって、今さら棄《す》てるどころか、一層|可愛《かわい》い。いかなる困難を排しても女を自分の手中の物にして、病気をも癒《なお》してやらねばならぬと思っているのに、もし、自分のこの体《てい》たらくを見知っている者があって、自分を痴愚とも酔狂ともいわば言え、自分ながら感心するほどの真実を傾け尽して女のことを思っているのに、こんな男を同伴して来る母親の心が怨めしい。なぜ自分のこの胸の内が母親には分らぬのであろう。自分一人で来て打ち融《と》けた談合をしようとせずに、訊くまでもなくもう底意《そこい》は明らかに見えている。その母親の心が、もうすっかり私と絶縁しているということが、惨《みじ》めに私の胸に打撃を与えた。
 それを思いながら、私は黙り込んでいると、その男は、
「僕は、この藤村の親類の者に依頼せられて今日来たのだが、君がこの藤村の娘を大変脅迫したために、精神に異状を来たしたといって、ひどく立腹をしている。それで、君がどうしても女が欲《ほ》しいなら、銭《かね》を五百何十円出してもらわねばならん」と、横柄な調子でいう。
 私は、それを聴《き》くと、もう、むらむらとなった。そして、腹の中で、「何を吐《ぬ》かしやがる。盗人《ぬすっと》猛々《たけだけ》しいとは、その言い分である」と、思ったが、それはじっと抑《おさ》えて口には出さず、
「はあ、私が藤村の娘を脅迫したために精神に異状を来たしたというのですか。……なお、女が欲しいようなら、銭を五百何十円出せ? 私にはよく合点がゆかぬ」と、言葉は、なるべく静かにしながら、きっとなって問い返した。
 するとその男は、
「自分はただ頼まれたので、委しいわけは知らんが、君が当人をひどく嚇《おど》かしたのが原因で気が狂ったそうじゃないか。そのために親類一同の者が大変君を怨んでいる」と、頭から押《お》っ被《かぶ》せようとする。
 それを聴いて私は、あまりの腹立たしさに顔が痙攣《けいれん》するかと思うほど硬《かた》くなったのを、強《し》いて笑いながら、
「戯談《じょうだん》をいっている!」と、語気を強めて吐き出すように言った。「なるほど今年の一月以来、……それまで、
前へ 次へ
全9ページ中7ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
近松 秋江 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング