ずであった」と、心づいて、「ともかく今晩は帰って寝て考えよう。気が狂ったといううえに、今晩になって、はじめて気がついたわけでもないが、知らぬうちこそ清浄《きれい》だが、だんだんあとからいろいろなことが分ってくると、この先まだまだ厭な思いをしなければならぬ。自分に強い意思があるなら、今晩という今晩こそ、彼女を潔く思いきって、彼女をはじめて知って以来、足かけ五年の間片時も心の安まらなかった苦患《くげん》を免かれて、快い睡眠を得ることが出来るのだが。……今、あんな人間から来ている手紙を見たのは、冷酷で皮肉と思われる運命の神がその実深切に、自分に誡告《かいこく》してくれたのかも知れぬ。……それにしても、運命はあまりに皮肉で悪戯《いたずら》なことをする」と、私は気ちがいになった、憐《あわ》れな彼女を愛しようとしても、皮肉な悪戯な悪魔がいて、愛することを妨げられているような、何ともいえない辛《つら》い思いに胸を拉《ひし》がれながら、やっと終い際《ぎわ》の電車に乗って、上京《かみぎょう》の方の宿に戻って来た。
 その夜はほとんど微睡もせずに苦しみのうちに明かして、翌日《あくるひ》は幸い気候も暖かであ
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