では大変だと思いながら、
「そうですか、毘沙門前の停留場を降りてすぐ五、六町ときいたのですが」と、私は繰り返して独《ひと》り言を言ってみたが、踏切りの番の女は、ただ、
「ちがいますやろ」
とばかりでしかたがない。そして、自分ながら阿呆《あほう》な訊ねようだと思ったが、もし京都からかくかくの風体《ふうてい》の者で病気の静養に来ている者がこの辺の農家に見当らないであろうかと問うてみたが、それもやっぱり、
「さあ、気がつきまへんなあ」で、どうすることも出来ない。
しかたがないから、私はそこから大津街道の往来の方に出て、京都から携えてきた寿司の折詰と水菓子の籠《かご》とを持ち扱いながら、雲を掴むようなことを言っては、折々立ち止まって、そこらの人間に心当りをいって問い問い元気を出して向うの山裾《やますそ》の小山の字《あざ》まで探ねて往った。十二月の初旬のころでところどころ薄陽《うすび》の射《さ》している陰気な空から、ちらりちらり雪花《ゆき》が落ちて来た。それでも私は両手に重い物を下げているので、じっとり肌《はだ》に汗をかきながら道を急いで、寂れた街道を通りぬけて、茶圃《ちゃばたけ》の間を横切ったり、藪垣《やぶがき》の脇《わき》を通ったりして、遠くから見えていた、山裾の小山の部落まで来て、そこから中の人家について訊ねたが、そういう心当りはどこにもなかった。それでもなお諦めないで、そこからまた引き返して、ほとんど、山科の部落という部落を、ちらちら粉雪《こゆき》の降っているにもかかわらず私は身体中汗になって、脚《あし》が棒のようになるまで探ね廻ったが、もとより住所番地姓名を明細に知っているわけでもないので、ついにどこにもそんな心当りはなく、在所の村々が暗くなりかけたからしかたなく、断念して、失望しながら帰路についた。
あとで小村という男に会ってそのことを話すと、彼は「一人往ったのでは、とても分らん」といっていたが、母親が近いうちにまたその話で来ることになっているから来てくれというので、少しは好い話をするかと思って、楽しんでその日に往くと、母親の調子はこの前会った時より一層険悪になって、こちらが、女に未練があるので、どこまでも下手に優しくして物をいうと、彼女は、理詰めになって来ると、しまいには私に向ってさんざんぱら悪態を吐《つ》いた。
そして、山科に娘を預けたというのは、※[#
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