っている。……心の中ではそんなことが鶯梭《おうさ》のごとく往来する。それをじっと堪《こら》えて、
「はあ、一軒借りて。……」と、私は思わずその一事に満身の猜察力《さいさつりょく》を集中しながら、独《ひと》り言のようにいっていると、委しいわけを知らぬおかみは、多分夏の初めそこに私の姿を時々見ていた以来、私たちの関係に変りのないことと思ったのであろう。
「もしおいでになるなら、あそこの俥屋《くるまや》でお訊きになると、すぐ分ります。あそこの俥屋が荷物を運んでゆきましたから、よく知っています」
と、深切に教えてくれたので、私は幾度も礼を繰り返しながら、路次を出て、横町の廻り角の俥屋にいって訊ねると、俥屋の女房がいて、自分は行かないが、そこをどう行って、こういってと、委しく教えてくれた。きけば、なるほどすぐ近いところである。
私は、心に勇みがついて、その足ですぐ金毘羅様の境内を北から南に突き抜けて、絵馬堂に沿うたそこの横町を、少し往ってさらに石畳みにした小綺麗な路次の中に入って行ってみると、俥屋の女房は小さい家だと教えたが、三、四軒並んだ二階建ての家のほかには、なるほど三軒つづきの、小さい平家があるけれど、入口の名札に藤村という女の姓も名も出ていない。それでまた引き返してもう一度俥屋にいってもっと委しく訊くと、その三軒の平家の中央《まんなか》の家がそれだという。
「ああ、そうですか?」と、いって、俥屋の女房には、逆らわずそのまままたもとの路次の方に引き返したが、今の先き見たところでは、その中央の家には、なるほど、まだ白木のままの真新しい名札が出ていたが、それには飯田とのみ誌《しる》してあった。私は不審さに小頸を傾《かし》げながら、もう一度路次に入って来てその飯田という名札の掲っている中央の家の前に立って、しばらく考えていた。
ああ読めた! 飯田というのは旦那の姓であろう、こうして、この旦那は、可哀《かわい》そうな私とは正反対に好きな女をうまうまと自分の持物にしおおせて、この新しい表札を打ったのであろう、と、向うの、その嬉《うれ》しい気の内を想像するだけ、自分は恐ろしい修羅《しゅら》に身を燃やしながら、もう生命《いのち》がけであくまでも自分の悪運に突撃してゆこうとする涙ぐむような意地になって来た。三尺をまた半分にした、ようよう体《からだ》のはいられるだけの小さい潜戸《くぐ
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