ったが、一週間ほど不在《るす》といいおいていって、まだ三、四日にしかならぬのであるから、老婦人はまだ帰っていない。相変らず門の扉《とびら》にはさびしく錠がおろしてある。するとその路次の中に立っていると、そこへ路次の入口の米屋の女房が共用水道の水を汲《く》みに出てきたので、そのおかみは東京者で、一度も口をきいたことはなかったが、夏の初め以来、顔だけ見知っていたので、もちろん先きでは、これが、あそこの二階にいる女の旦那と思って、こちらよりも一層注意して見ていたかも知れぬ。それで、そのおかみに、
「ここのお婆さんはお留守でしょうか」と、昨日《きのう》も出口の店屋で訊いているので無駄だと知りつつも、そう言って訊《たず》ねると、おかみは、バケツを提《さ》げたまま、
「あの、あそこの二階にいたお婆さんですか」と、門の外から女のいた二階の方を指さしながら、訊き返した。それで私は腹の中で、階下《した》のお婆さんのことを訊ねたのだが、それを訊くのも、やっぱり階上《うえ》にいた女の母親のことを訊ねようとてであるから、これは、うまい具合だと思って、
「ええそうです」と、いうと、
「あのお婆さんは、つい五、六日前に、すぐそこの、安井の金比羅《こんぴら》様のあちら側にお越しになりました」という。
 私は、心の中で肯《うなず》いて、それじゃ、八月の末にここの所帯を畳んでしまって母親もいなくなったと言ったのは、皆なこしらえごとであったかと、合点《がてん》しながら、さあらぬ風に、
「ああそうですか。五、六日前に変りましたか」
「ええ、ついこの間です。たくさんに荷物を持って。お婆さん、私にも挨拶をして下すって、今までは二階借りをしていましたけれど、今度は自分で一軒借りました。気兼ねがなくなりましたから、どうぞ遊びに来て下さいというて行かれましたけれど、私もわざわざ行く用もありませんから、まだ往っては見ませんが、なんでもすぐそこの横町の通りからちょっと入った、やっぱり路次の中だそうです」
 私は、はっと胸を刺すように思い当って、自分でも、顔から血の気が一時に失せたかと思った。今までは二階借りであったけれど、今度は一軒借りきりで、気兼ねがない。たとい病気というに※[#「言+虚」、第4水準2−88−74、読みは「うそ」、438−下−7]はないにしても、背後《うしろ》に誰か金を出す者が付いているに定《きま》
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