んお久しゅう。私、一昨日の晩紀州から帰って来ました。このごろはもうここにいないんですって」
といって、訊《き》くと、母親もそこに腰を掛けながら、もう先月の末からそこの所帯を畳んでしまって、自分は上京《かみぎょう》の方の親類の家に厄介になっているようなことを言っていた。私は、そこでも、そんな親類の家に厄介になっているよりも、何とかして私が自分で適当な家を一軒借りて京都に住みたいから、そしたら、おかあはんに、そこへ来てもらいたいというような意向を洩《も》らすと、家主の老婆も傍から、
「そうおしやしたら、ほんよろしいがな」といって、口を添えていたが、母親はいつも愛想よくにこにことはしていたが、
「そのこともあの娘《こ》がどない言いますか、あの娘の腹一つにきまることどすさかい」といって、いつものとおりに何もかも自分では要領を得た返事をしなかった。
それでも私は、一昨日雨模様の欝陶しい晩方にこの街にかえって来て、ここの路次を覗いて見た時とちがい、もうここにはいないと思っていた母親に偶然また会ったので、さながら彼女に会ったと同じような喜びを感じたのであった。
「今日は死んだ息子の命日どすよって、ちょっとお墓詣りに来たついでにここのお婆さんとこへもお寄りしましたのどす」といっている。
「そうですか、今日はちょうどお寺詣りに好い彼岸びよりだ。私も一緒にまいってもいいな」と、私はひとりごとのようにいったが、母親にはまた会って話す機会もあるだろうと思って、その時はそのまま家主の老婦人のところを出て戻った。
そして、女に会おうと思えば、どこかへ行って知らしさえすれば会えるのだが、こちらの心はそれではないので、それから一、二度女を電話口まで呼び出して話したことがあった。紀州の方の山から帰ってきた、この間おかあはんにも先の家でちょっと遭《あ》った、ここへ来てもらいたい、来ないか、と言ったけれど、そのうち都合して行きますと言ったきり、向うから電話を掛けてくれるようなこともなく、いつもこちらの言うことを柳に風のように受け流しているようであった。後には、帳場に近いところで、女中や番頭などの耳に入るのが厭《いや》で、外の自動電話にいって呼び出したりしたこともあったが、いつも返事は同じことで、少しも要領を得なかった。何だか、池の水の中に泳いでいる美しい金魚か何ぞのように、あまり遠くへ逃げもせず、す
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