に往って泊るのが何よりよいと思ってその家へ投宿した。
 するとちょうど古い馴染《なじ》みの、気の利《き》いた女中が出て来て、気持よく世話をしてくれた。私はさっきステーションに着いてから欝陶しい空模様と同じようにほとんど泣き出したいばかりに悲しくなっていたのが、やっと、そのためにいくらか心をまぎらすことができた。そして心地《ここち》の好い風呂に入って柔かい蒲団の中に横たわって、都会的情趣に浸りながら早くから寝に就《つ》いた。七月の初めからほとんど三カ月に近い、高い山の上の枯淡な僧房生活の、心と体との飢渇から、すっかり蘇生《そせい》したような気持になった。外では夜に入るとともに豪雨にひどい嵐《あらし》が吹き添って来たと思われて、よっぴて荒れ狂うていたが、私はそれとは反対にかえって安らかに眠りに陥《お》ちた。
 翌日《あくるひ》は午前はまだ暴風雨の名残《なご》りがつづいていたが、午《ひる》過ぎから風も次第に歇《や》み、雨も晴れた。女のことは始終念頭にあったけれど、実はあまりにそのことばかり長い間思い続けて、思いに疲れているので、たまにはほかのことで気を晴らしたく、そのころちょうど東都から京都に来ていた知人のところを訪《たず》ねたりしてその日は一日消した。
 その翌日は、昨日の暴風雨の名残りは痕跡《あと》もなく綺麗《きれい》に拭《ぬぐ》い取ったような朗らかな晴天になった。紺碧《こんぺき》の空は高く澄み渡って、一昨日《おととい》の豪雨に洗い清められた四囲の景色が、暑くも寒くもない初秋の太陽の光を一杯浴びているのが、平常《いつも》でさえ美しいその街《まち》の眺《なが》めを、今日はあたかも玻璃《ガラス》の中の物を窺《のぞ》いて見てるように明麗であった。
 今日は一つ女の先にいた家の様子を見て来よう。――無論女からの手紙を信じてもうそこにはいないものと思っていたから――と思って、私は午少し前に衣服を更《あらた》めて、旅館からはすぐ近いところにある、電車通りを向うに渡った横町にある路次の中に入って往ってみた。すると、その日は好いあんばいに階下《した》の家主の老婆が内にいたので、私は玄関の上り框《かまち》に腰を掛けながら、老婆と久しぶりの挨拶を交わして、しばらく話していた。すると、そこへ女の母親が、寺詣《てらまい》りでもするらしい巾着《きんちゃく》をさげて入って来た。
「ああ、おかあは
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