してお留守どす。さあ、どうぞ二階にお上がりやして」
と、母親は、さっき私が入って来た時、潜戸の中から覗いた時の様子とは、まるで違った調子でいう。
私は、ただ何ということもなく、さっきのその顔色が気になりながら、
「へえ、ありがとう。上がります。……何もこんな雨の降る日に戻って来なくとも好いのですけれど……」といいかけると、母親は、妙に感疑《かんぐ》ったか、
「あんたはんのお留守の間に誰か来ている思いやして?」と、笑顔しながら言う。
「いや、そんなことはちっとも思ってやしませんけれど、こんな雨の降る日に戻らなくってもいいのですけれど、田舎は何としても蚊がいる、蝿《はえ》がいる、とても辛抱出来ませんから……」
母親とそうして口を利《き》き交わしていると、娘はそれきり黙ってしまった。それから私は二階の八畳に上がって来て母親が今言ったことから妙に気がさしたので、それとなく注意してよく見ると座敷の中央《まんなか》に今まで人の坐っていた夏座蒲団《なつざぶとん》が、女もそこにいたらしく二つ火鉢の傍に出ていて、火鉢の中には敷島の吸殻《すいがら》がたくさん灰の中に挿《さ》してあった。私は腹の中で、ただ呉服物の用ばかりで来ていた客かどうかと自然《ひとりで》に疑ってみる気になった。が、もちろんそんなことを口には出さなかった。
そして、またここへ舞い戻って来てしばらく厄介《やっかい》をかけることのさぞ迷惑であろうということを繰り返して詫《わ》びて、女には、私には少しも構わず、主人の思惑もあるから店に帰って勤めの方を大事にするようにいった。
私が田舎に往ったあとは、私のいる間いろいろ気を使ったために疲れあんばいで、あれからずっと休んでいたので、
「今日久しぶりに店へかえります。ほんならちょっといてきます」
といって、出て往ったが、女は、その晩からかけて翌日《あくるひ》の晩も戻って来なかった。それから半月ばかりして、私が山の方に出立するまで彼女は多くは主人の方にいっていたが、立つ前にはまた二、三日休んで、私のために別れを惜しんでくれたのであった。
三
あれほど母子二人して歓待しておきながら、今度居処を変ったのに、なぜ知らしてくれないであろうと、少なからず淋《さび》しい気持になって、せめてこの欝《ふさ》いだ心を慰めるには、明るく温《あたた》かい感じのする、行きとどいた旅館
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