分ってしまえばもうお清なんかに用はない。
「お清さん、主婦《おかみ》さんはどこへいったんだね。大変|遅《おそ》いじゃないか」
「ええ、大変遅うございますねえ、大方活動へでも行ったんでしょう」
「そうか。じゃ僕はまた来ます。お留守にお邪魔しました」
「まあ好いでしょう。お宮ちゃんがいないからって、そう早く帰らなくってもいいでしょう。今におかみさんも帰って来ますよ」
そこを出ると私は心を空《そら》にして有馬学校の裏に急いだ。二月も末になると、もう何となく春の宵《よい》めいた暖かい夜風が頬《ほお》をなでて、曇りがちな浮気な空から大粒な雨がぽたりぽたりと顔に降りかかった。
その待合にいって、私の名をいわずにそっとお宮を下に呼んでもらった。
「便処にゆくことにしてこちらにまいりますから、どうぞ処室《ここ》でしばらくお待ち下さいまし」
物馴《ものな》れた水戸訛《みとなま》りの主婦が出て来て私を階下《した》の奥まった座敷に通した。
間もなくお宮は酒に赤く火照《ほて》った頬を抑《おさ》えながら入って来た。
「あッ、あなたですか。私だれかと思った」
と入りながらちょっと笑顔を見せたが、すぐ不貞《ふて》たような面をして、
「私酒に酔った」独語《ひとりごと》のようにいって頬をなでている。
「だれだえ? お客は?」軽く訊《き》いて見た。
「うむ、誰れでもないの」
「誰れでもないわけはない。だれだろう。それとも君の好きな柳沢さん?」
「うむ、柳沢さんなんか来るものですか。……よく酒を飲む客。一昨日から芸者を上げて騒いでいるの」
そういうところを見ればなるほど柳沢らしくはない。
「そうか。……まあそんなことはどうでもいいとして、この間私の家へ来た時から私には君の心はよく分ったから、とにかく私が君のところにやっている手紙だけそっくり皆な私に返してくれたまえ。君からもらった手紙も私はこうして皆な持って来ているから。君の方から返してくれれば私の方からも皆な返すから……」
そういって私は懐中《ふところ》から、ちょうど折よく持ち合わしていた紫めりんすの風呂敷《ふろしき》の畳んだのを取り出して、
「これこのとおり君の手紙は持っている。私のさえ返してもらえばその時これも返すから」
「私、ここにあなたの手紙なんか持って来ていないもの」
「だから今というんじゃない。君がも一度よく考えて見て、私の方に来てくれるのが厭《いや》ならば、その手紙は私の方に返して欲《ほ》しいというんだ。君は柳沢さんの方にゆくんだろう」
「そりゃ考えて見るけれど、私、柳沢さんなんか、あなたの友達に身を任すなんてそんなことをする気遣《きづか》いはない」
私は何を言うかと思いながら、
「それならそれでいいから、私また一週間ばかりして来るから、その時分までよく考えておいてくれたまえ」そういってそこの待合を出た。
柳沢は行ってはいなかった。
じゃ、いろいろ思いまわしたのが自分の邪推であったろうか、邪推としたら自分は厭な性質をもっている。私自身|他人《ひと》から邪推せられた時ほど厭な心持ちのすることはない。自分はそんな邪推をするような人間を何よりも好かぬ。そんなことを考え考えその晩は加藤の二階に戻って来た。
それから二、三日たって、それでもまだやっぱり柳沢とお宮との間が気になるので柳沢の家にいって見た。
すると柳沢は階下《した》の茶の間で老婢《ばあさん》に給侍《きゅうじ》をさせながら御飯を食べていたが、
「この間うち家にいなかったな」と、いいながら私は火鉢《ひばち》の横に坐った。
「うむ」と、いいながら柳沢は黙って飯を喰《く》っている。
飯が済んでから柳沢は、
「僕は鎌倉《かまくら》へしばらく行って来るつもりだ」と、いう。
「そりゃ好いなあ。いつ?」
「いつって、今日か明日か分らない」
「あれからお宮に会わないかえ?」私は微笑しながら訊《たず》ねた。
「会やしないさ」柳沢は苦い顔をしていった。
「ランプ掃除《そうじ》をしていた神楽坂の女はどうした?」
「あれは、あれっきりさ」
「だってちょっと好い女じゃないか」
「あんまりよくもない。……彼女《あれ》なら君にゆずってもいい」柳沢は戯談《じょうだん》らしゅう笑いながらいった。
私は、はて変なことをいうなあ。と心のうちで思った。
彼女《あれ》なら君にゆずってもいいというのは、彼女《あれ》でない女があるということだ。それはお宮のことである。じゃ、やっぱりお宮のことを柳沢は思っているのだな。そう思いながら私は、
「いや、別に僕はあの女が欲しいのじゃないが」といって笑いながら、
「やっぱりお宮の方が僕は好きだ」と、柳沢の思っていることに気のつかぬもののように無邪気にいった。
「……お宮はどうしても小間使というところだな。……それに襟頸《えり
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