はる手をつづけていた。
 あんなに私がしおれて正直に出たのだからお前の老母《おっか》さんがよもや嘘《うそ》をいいはすまい。そうすると嫁いているに違いない。嫁づいているとすれば、返すがえすも無念だ。そう思うとその無念やら怨恨《うらみ》やらは一層お宮を思い焦がれる情を切ながらした。

 お宮のいる家の主婦《おかみ》とも心やすくなって、
「雪岡さん親切な人だ。大事におしよ」と、いっていたというのをお宮の口からよく聴いた。
「自家《うち》の主婦さあ、雪岡さんのとこなら待合にゆかないでもあっち行って泊らしてもらっといでと、いっているのよ」
「そうか、じゃ僕のところに来てくれたまえ」
 その内私は加藤の家の主婦にも事故《ことわけ》を話して点燈《ひともし》ごろから、ちょうど今晩嫁を迎えるような気分でいそいそとして蠣殻町までお宮を迎えにいった。
 帰途《かえり》には電車で迂廻《まわりみち》して肴町《さかなちょう》の川鉄に寄って鳥をたぺたりして加藤の家へ土産《みやげ》など持って二人俥を連ねて戻って来た。
「それは御無理はありません。七年も八年も奥さんのおあんなさった方が急に一人者《ひとり》におなんなすったのでは。誰れか一人楽しみがなければつまりません」
 と、いってくれている主婦は、私が女を連れ込んで来たのを快く迎えて枕の心配などしてくれた。
 翌朝《あくるあさ》日覚めると明け放った※[#「木+靈」、第3水準1−86−29、350−下−6]子窓《れんじまど》から春といってもないほどな暖《あった》かい朝日が座敷の隅《すみ》まで射《さ》し込んで、牛込の高台が朝靄《あさもや》の中に一眸《ひとめ》に見渡された。
「好い景色ねえ。一遍自家の主婦さんと一緒に遊びに来るわ!」
 お宮は窓に凭《もた》れて余念もなく遠くの森や屋根を眺《なが》めていた。
 私はまるで新婚の朝のような麗《うら》らかな心持に浸って、にわかに世の中の何もかもが面白いものに思いなされた。
 いつも階下《した》におりて食べる御飯を、今日は主婦さんが小《ち》さい餉台をもって上って、それに二人の膳立《ぜんだ》てをしてくれた。
 私の大好きな小蕪《こかぶ》の実の味噌汁《みそしる》は、先《せん》のうち自家でお前がこしらえたほど味は良くなかったけれど久しぶりに女気がそこらに立ち迷うていて、二人差向いでお宮にたき立ての暖かい御飯の給侍《きゅうじ》をしてもらって食ぺていると、まるで御飯が咽喉《のど》へ飛び込むようであった。女というものは恐ろしいものだが、どうしてまたこうお腹《なか》の具合を良くするものであろう。それに比べると医者からもらった胃の薬なんざあ駄目《だめ》だなあと思った。
 お宮は五円札を一枚やると嬉《うれ》しさを押し包むように唇《くち》をきゅっと引き締めて入口まで送って出た私の方を格子戸《こうしど》を閉めながらさも思いを残してゆくような嬌態《しな》を見せて、
「さようなら!」と、眼を瞑るようにしながら猫のような繊細《かぼそ》い仮声《つくりごえ》をして何度も繰り返しながら帰っていった。
 私は急いで二階に駆け戻って、お宮の帰ってゆく姿の見られる西側の小高い窓を開いてそっちの方を見送ると、今しもお宮は露路口の石段を上って表の通路《とおり》に出で立ちながら腰帯の緩《ゆる》みをきゅっと引き締めながら、
「これから帰ってまた活動するんだ」と、いわぬばかりに鬼の首をも取らんず凄じい様子で眼八分に往来を見おろして歩いていった。
 それを見て私は浅ましい考えにつづいて厭らしい気がした。
 加藤の家に来てから柳沢の家とはすぐ目と鼻とであったが、お宮がちょいちょい私の二階に泊りに来るようになってからは、一層気をつけて柳沢の家へは立ち寄らぬようにしていた。たまにそれとなく入っていって柳沢の留守に老婢《ばあ》さんと茶の間の火鉢《ばち》のところで、聞かれるままにお前の噂《うわさ》ばなしなどをしたりして、ついでに柳沢の遊ぶ話など老婢さんが問わず語りにしてきかすのをきいても、それからお宮のところへはあまり凝ってゆかぬらしい。
 私は、とにかくにお宮を自分の物にしたような気になっていた。
 三日ばかり間を置いて、お宮が病気で休んでいるという葉書をよこしたので、私は親切だてに好い情人《いろおとこ》気取りで見舞かたがた顔を見にいった。
 平常《ふだん》でさえ賑《にぎ》やかな人形町通りの年の市はことのほか景気だって、軒から軒にかけ渡した紅提燈《べにぢょうちん》の火光《ほかげ》はイルミネーションの明りと一緒に真昼のように街路《まち》の空を照らして、火鉢や茶箪笥《ちゃだんす》のような懐かしみのある所帯道具を置き並べた道具屋の夜店につづく松飾りや羽子板の店頭《みせさき》には通りきれぬばかりに人集《ひとだか》りがしていた。
 他人になっ
前へ 次へ
全25ページ中13ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
近松 秋江 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング