一体どんな考えでいたんです? つい此間《こないだ》函根に行く前に奇麗に此女《これ》と手を切って行ったんじゃありませんか」
私には、新吉のいう文句よりもその躍起となって一時血の循環《めぐり》の止ったかと思われるように真青になった相形が見ていて厭《いや》だった。
私は、その毒々しい顔を見ながら、わざとずるく構えて新吉にばかり言いたいだけ文句を並べさして黙り込んでいた。
「お前さんはずるいよ、人にこんなに饒舌《しゃべ》らしておいて。さあ、どうしてくれるんだ? 雪岡さん、今ここを出ていって下さい」
「あなたがそんなに言わなくっても出てゆくさ。しかし出てゆくには出てゆくで、私の方でも下宿するなりどうするなり、いろいろ準備をしなければならぬから」
私は対手《あいて》にするのが厭で鄭寧《ていねい》にいうと、
「準備をするのはもう何日も前から分っているじゃないか、そりゃお前さんの勝手だ。こっちはそんなことは知らない。早くこの老母《おふくろ》の家を出て行っておくんなさいッ……さあ出て行っておくんなさいッ」
私がつい一と口くちを出すと、また図に乗って十口も文句を並べた。
「猫や犬じゃあるまいしそんなに早く出てゆかれるものか」
「お前さんのような道理《わけ》の分らない人間は猫や犬を見たようなものだ。何だ教育があるの何のといって、人の娘を玩弄《おもちゃ》にしておいて教育が聴いて呆《あき》れらあ。……へんッお前さんなんぞのような田舎者《いなかもの》に江戸ッ児が馬鹿にされてたまるものか」
まるで人間を見たことのない田舎の犬が吠《ほ》えつくようにぎんぎんいった。
私は微笑《うすわらい》しながら黙っていた。
「あなた、今日出て行って下さい。……義兄《あに》さんのいうのが本当です。あなたが一体函根からまた此家《ここ》へ舞い戻って来るというのが違っているんですもの」そういって新吉の方に向いて言葉を柔らげて「私が出します。ほんとに義兄さんには多忙《いそが》しいところを毎度毎度こんなつまらぬことで御心配ばかりかけて済みません」
「ええ、いや。しかしおすまさんもおすまさんじゃないか。雪岡さんがいくら戻って来たってお前さんが家へ入れるというのがよくない……」
「ええ、それはもう私が悪いんです。そのこともこの人によくそういったんです。お急がしいところをどうも済みません。きっとこの人も出てゆきますから、どうぞもう引き取って下さいまし。……また大きな仕事を何かお請けなすったって」お前はそういってほかへ話をそらそうとした。
「いえ、ええ」と、新吉は得意げな返辞を洩らしながらだんだん静かになって来た。
「……あなた、新さんがあんなにいうんですから、どうぞ新さんのために別れると思って此家《ここ》を出ていって下さい」
新吉が帰っていってからお前は私の傍に戻って来てそういった。
「何だ。あの物のいい振りは。俺《わし》はあんな人間がお前の姉の亭主だと思うと厭だからいわなくとも早くどこか探して出てゆくよ」
「初めガラッと門をあけて入って来た時に、あんまり恐ろしい権幕だったから、私はどうしようかと思った。私を打《ぶ》ちでもするかと思った。私、あれが新さんが厭なの。そりゃ姉の亭主だから義兄《にい》さんにいさんと下手《したで》に出ていれば親切なことは親切な人なんですけれど」
「なんだ。教育がどうのこうのッて」
「自分一人偉い者のようにいって」お前もそういって冷笑《わら》った。
そんな喧《やかま》しいことがあったけれど、私がどうしてもずるずるに居据って出てゆかなかったのでとうとうお前の方から姿を隠してしまったのだった。
そしていつの間にかもうそんなところへ嫁《かたづ》いていたのだと聴いたから、私は、新吉はじめお前たちを身を八裂きにして煮て喰《く》ってもなお飽き足らぬくらい腹が立ってあんなに、お前をどこの街頭《まちつじ》でも構わない、見つけ次第打ち殺すと書いたのだ。
加藤の二階で、寂しさやる瀬なさに寝つかれぬままその手紙を書きながら、どうあってもお前を殺すという覚悟をしていると、いくらか今朝からの怨恨《うらみ》が鎮静して来たようだった。
翌朝《あくるあさ》その手紙を入れた足で矢来の老婆《ばあ》さんのところにゆき
「おばさん、もうおすまの奴《やつ》ほかへ嫁づいていやがるんだ!」
そういって、私は身を投げるようにそこに寝転んだ。
「へえ! もう嫁いているんですって?……誰れがそんなことをいいました」
昨日《きのう》これこれでお前の老母《おっか》さんから聴いたという話しをすると、
「そうですか。……どうも私にはそんなには思われませんがねえ。けれどもおすまさんも年がもう年ですから、急いでそうしたかも知れません」
老婆《ばあ》さんは手頼《たよ》りないことをいいながら、相変らず状袋を
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