というのを主婦の口添えで無理にさそうて連れて来た。すると関口台町の坂を上って柳沢の家の前を通るときにお宮は私と肩を並べて歩きながら、
「ここが柳沢さんの家でしょう」といった。
 私は、いつかお宮に「柳沢さんの家はどこ?」といって訊かれたことがあった。けれど教えなかった。教えなかったのは私はこんな尾羽《おは》打ち枯らした貧乏くさい生活をしているのに柳沢はいつも洒瀟《こざっぱ》りとした身装《なり》をして、三十男の遊び盛りを今が世の絶頂《つじ》と誰れが目にも思われる気楽そうな独身《ひとりみ》で老婢《ばあや》一人を使っての生活《くらし》むきはそれこそ紅葉山人《こうようさんじん》の小説の中にでもありそうな話で、
「まあ意気だわねえ!」と、芸者などは惚れつくようにいうだろうと思う。それで私がお宮に柳沢の家を明かさなかったのでもない。私はとかくお宮のことについて今までよりも柳沢と私との間をなるたけ複雑にしたくないと思ったのである。
 そのころ柳沢はどっか神楽坂《かぐらざか》あたりにも好いのが見つかったと思われて、正月《はる》以来好いあんばいにお宮のことは口にしなくなっていた。
 いつであったか、久しぶりに柳沢の家を覗《のぞ》いて見ると玄関に背の高い色の白い大柄な一目に芸者《それ》と見える女がいて、お召の着物に水除《みずよ》けの前掛けをしてランプに石油を注《つ》いでいた。私は先生味をやっているなと思いながら、
「柳沢さんは留守ですか」と訊くと、
「ええおるすでございます」という。
「老婢《ばあ》さんは?」
「お老婢さんもただ今自分の家にいったとかでいませんです」
 芸者《おんな》は、私の微笑《ほほえ》んでいる顔を見て笑い笑いいう。
 そんなようなわけであったから、柳沢はあれッきりお宮をつつきにゆかないものと思っていたのだ。それでちょっと不思議に思いながら、
「お前柳沢の家を知っているの?」と訊ねた。
「ええ、……いや知らないの」
「そうじゃあなかろう」
「真実《ほんとう》よ。知らないの。ただそうかと思ったからちょっと聞いて見たのさ」
 加藤の二階に上って来てからもお宮は初めから不貞腐《ふてくさ》れたように懐手《ふところで》をしながら黙り込んでいた。
「どうしたの……大変沈んでいるじゃないか」
「…………」
「何か心配なことでもあるの?」
「うむ!……あなた私にしばらく何にもいわずに
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