織を着た姿がちらりと眼に浮んだ。
「じゃ、おすまでも来ましたか」
「いや、お宮さん。あなたがそこへおかえりになるちょっと前、まだ終点まで行っていられるか、いられないくらいです。お会いになるはずだがなあ。お会いにならなかったですか」
「いえ、会いません。……それで何とかいってゆきましたか」
 今まで何度来ても、それはこちらで玉《ぎょく》をつけてやるから来るので、向うからついぞ訪《たず》ねて来たことなどなかったのに、めずらしい。どうしたのだろう。と、滅入《めい》っていた心がにわかに引き立って、これはいくらか、惚《ほ》れられているのだな、と。そう思うとそこらがたちまち明るくなって、ぞくぞく嬉《うれ》しくなった。
「そしてこれを家へあげますといって置いていらっしゃいました」
 老婦はお宮の絹手巾《きぬハンケチ》で包んだ林檎《りんご》を包みのまま差し出した。手に取り上げて見るとお宮と一緒にいるような薫《かお》りの高い香水の匂《にお》いが立ち迷うている。
「ああ、そうですか。何か用があるんだな」
「ええ、何か御用がありそうでしたよ。お留守ですと申しましたら、ちょっとそこに立って考えていらっしゃいましたが、これをあげますといって、包みのまま置いておかえんなさいました」
「ああ、そうですか。でもよく向うから今日は訪ねて来たな」
 そんな話をしながら私はしばらく老人《としより》夫婦の炬燵にあたっていた。
「温順《おとな》しい、美しい方ですねえ。今日はいつもよりも綺麗に見えた。あなたがお惚れになるのも無理はないと思いました」
「うむ、好い人です」老人《じいさん》までが今夜は老婦《おかみさん》に和してお宮の美しく温順しやかなことをほめた。
「ああそうですか。あれであんな商売をしているとは思われますまい」
「ほんとにそうですよ。ちっともそんな風は見えません」
「あの人を出して奥さんにしたらいいでしょう」今夜はどうしたのか、老人がしきりにさばけたことをいう。
「まさかねえ、蠣殻町の売女《おんな》を女房にも出来ますまいが、妾《めかけ》にする分にはかまわない。もっとも私は妾でも女房でも同じこったから……何か用があるんだなあ」
「また明日《あす》でもおいでになりますよ。何か用がありそうでしたから」
 けれども明日になってもお宮は来なかった。ほんとに用があるなら手紙でもよこしそうなものだと思って待ち
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