て歩いているうちに、さすがに長く雨を見なかった空から八時ごろになるとぱらぱらと大きな雨粒を落して来た。そして見る見るうちに本降りになって来た。不意を喰《くら》った人群《ひとごみ》は総崩《そうくず》れに浮き足だって散らかっていった。
「ああ好い雨だ。早くかえろう」
 夜店の商人《あきんど》が雨を押し上げる思いで怨《うら》めしそうに天を見上げながら、
「もう二時間|遅《おそ》いと早いとで大きな違いだ」と、舌打ちするようにいってつぶやいているのを、私はしっとりとした好い気持ちに聞きなしながらお宮を連れて清月にもどって来た。
 平常《いつも》と違って客はないし、階下《した》で老婢《ばあさん》が慈姑《くわい》を煮る香ばしい臭いをききながら、その夜くらい好い寝心地の夜はなかった。

 年が改まってからも今までのとおり時々お宮を呼んで加藤の家に泊めた。それでいて私は、お宮を落籍《ひか》すなら受け出してすっかり自身のものとしてしまうことも出来なかった。
「お前、いつまでもこんな稼業《かぎょう》をしていたって仕方がないじゃないか。早く足を洗って堅気にならなけりゃいけないよ」
「ほんとに私もそう思うよ」お宮は太息《ためいき》を吐《つ》くようにしていった。
「僕が出してあげようか」
「出してもらったって仕方がない」
 少し真面目《まじめ》な話しになろうとすると、後はそういってそらしてしまった。そういうわけで私もしばらくお宮に会わずにいた。
 すると、忘れもせぬ二月の十一日の夜であった。日がな一日陰気に欝《ふさ》ぎ込んでばかりいた私は、その夜も、ついそこらをちょいと散歩して来るといって、水道町の通りをぐるりと一と廻りして帰って来た。私が入口に入る姿を見ると、すぐ上り口の間で炬燵《こたつ》にあたっていた加藤の老人夫婦は声をそろえて微笑《わら》いながら、
「あッもう一と足のところでした。惜しいことをした」
「どうしたのです? 誰れか来たのですか」
「あなたの好きな人が今見えました」老婦《おかみさん》は笑い笑いいう。
「好きな人ってだれです?」私は、そういいながら、腹の中ではッと度胸《とむね》を衝《つ》きながら、もしやお前でも夜の人目を忍んでたずねて来てくれたのではないかと思った。
 そう思うと、お前の顔容《かおかたち》から、不断よく着ていたあの赤っぽい銘仙《めいせん》の格子縞《こうしじま》の羽
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