い》がってやって下さい」
腹の中ではお宮の気心をはかりかねて、真個《ほんと》に嫌われたのだろうかと、消え入るような心地《ここち》になっていたのが、主婦の物馴れた調子に蘇《よみがえ》ったような気になって、私は一と足さきに清月にいった。
お宮はじき後からやって来た。
「あなた、自家《うち》の子にいろんな物をやってくれたでしょう。主婦さんそういっていた。……あんなにしてもらうと、私顔が立っていいの」お宮は横になりながら宵のことは忘れたようにいった。
「しばらくだったねえ」
「わたいもしばらくだわ」
「お前さっきどうしてあんなに怒ったんだい」
「あなたが、あんまり菊ちゃんのことばかりいうからさ」
その晩はいつにない打ち解けた心持ちになって、私は早く帰った。
加藤の家へも梅干飴《うめぼしあめ》を持って帰ってやると、老人《じいさん》に老婆《ばあさん》は大悦《おおよろこ》びで、そこの家でも神棚《かみだな》に総燈明をあげて、大きな長火鉢を置いた座敷が綺麗《きれい》に取りかたづけられて、まわりが年の暮の晩らしゅう光るように照り映《は》えている。
私とお前と一緒にいた間は、今年の年の暮はと、正月らしい気持ちのしたことはついぞ一度もなかったのに、加藤の家の老人《としより》夫婦の物堅い気楽そうな年越しの支度《したく》を見て、私は自分の心までが稀《めず》らしく正月らしい晴れやかな気持ちになった。
そして翌日《あくるひ》の大晦日《おおみそか》には日の暮れるのをまちかねてまた清月に出かけた。お宮の来るのを待って一緒に人形町の通りをぞろぞろ見て歩いた。
「わたし扱帯《しご》が一つ欲《ほ》しいの。あなた買ってくれる?」お宮は眩《まぶ》しいばかりに飾った半襟屋《はんえりや》の店頭《みせさき》に立ちどまってそこに懸《か》けつらねた細くけを捻《ひね》りながらいった。
「うむ」と、私は鷹揚《おうよう》にうなずいた。
「じゃ、あの松ちゃんにもこの細くけを一つ買ってやってもよくって」
「うむ」
「何かうまい物を買っていって、食べようじゃないか」
「うむ」
十日ばかりというもの風ほこりも立たず雨も降らず小春といってもないほど暖《あった》かな天気のつづいた今年の年暮《くれ》は見るから景気だって、今宵かぎりに売れ残った松飾りや橙《だいだい》が見ているうちにどんどんなくなってゆく。
そうして軒から軒を見
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