くことにのみ心が澄んで来た。
喜久井町《きくいちょう》にかえると、老母《ばあ》さんは、膳立《ぜんだ》てをして六畳の机の前に運んで来た。私はそれを食べながら、銭《かね》の工面をして、出かけようとすると、
「またどこかへおいでなさるんですか」老母さんは、門の木戸を明けている私の背後《うしろ》から呼びかけた。
「ええ、ちょっと」と、いったまま、私は急いで歩き出した。
そして先だってお宮の連れ込みで行った、清月《せいげつ》という小さい待合に行ってお宮を掛けると、すぐやって来た。
一と口|挨拶《あいさつ》をした後は黙って座《すわ》っているその顔容《かおかたち》から姿態《すがた》をややしばらくじいっと瞻《みまも》っていたが柳沢がどうもせぬ前とどこにも変ったところは見えない。肌理《きめ》の細かい真白い顔に薄く化粧をして、頸窪《うなくぼ》のところのまるで見えるように頭髪《かみ》を掻きあげて廂《ひさし》を大きく取った未通女《おぼっこ》い束髪に結ったのがあどけなさそうなお宮の顔によく映っている。そしてその女の癖で鮮《あざや》かな色した唇《くち》を少し歪《ゆが》めたようにして眩《まぶ》しそうに眸《ひとみ》をあげて微笑《え》みかけながら黙っていた。
「どうしていた?」
私は、やっぱりじろじろとその顔を見守った。傍《はた》で、その顔を見ている者があったら薄気味わるく思ったかも知れぬ。
「いいい」お宮は何ともいえない柔かな可愛い声を出した。
これが、あの柳沢にどうかされたのだ。と思えば他の男のことは不思議になんとも感じないのに、ただそればかりが愛情の妨げになって、名状しがたい、浅ましい汚辱を感じて堪えられない。
「お前ねえ、私の友達のところにも出たろう。――しかしそれは構わないんだけれど……」
私はじっと平気を装ってからいって見た。
「いいえ。そんな人知らない」頭振《かぶ》りをふった。
「ああ、そりゃお前は知らないかも知れぬ。お前は知らないだろう。けれども出るのは出たんだ。僕がその友達から聞いたんだから」
「いや、知らない。あなたの友達なんか、ちっとも知らない」
「いや、知らないわけはないんだ。お前は知らないんだけど。……四、五日前に、背の低い色の浅黒い、ちょっときりッとした顔の三十ばかりの人間が来たろう」
そういうと、お宮はしばらく思い起すような顔をしていたが、
「ああ、来た。
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