宮……を買ったと思えば、全く興覚《きょうざ》めてしまって、神経を悩む病人のように、そんなことをぶつぶつ口の先に出しながら拳固《にぎりこぶし》を振り上げて柳沢を打《ぶ》つつもりか、どうするつもりか、自分にも明瞭《はっきり》とは分らない、ただ憎いと思う者を打《ぶ》ん殴《なぐ》る気で、頭の横の空《くう》を打ち払い打ち払い歩いて来たのだが、
「これッきりお宮を止《や》めてしまう。柳沢が買ったので、すっかり面白くなくなった」
 と、残念でたまらなく言いつづけてここまでの道を夢中のようになって歩いて来たが、それでもまだどうしても止められない愛着の情が、むらむらと湧《わ》き起って来た。そうしてこういうことが考えられた。
 強盗が入って妻が汚された時に、夫は、その妻に対してその後愛情に変化《かわり》があるだろうか。それを思うと、それが現在あることというのでなく、ただ私が自身で想像に描いて判断しているだけなのだが、ちょうど今自分の身にそういう忌わしい災難が降りかかって来ているかと思われるほど、その夫の胸中が痛ましかった。
 そうしたら夫は、どうするであろう。妻は可愛《かわい》くってかわいくってたまらないのである。しかるにその可愛い妻の肉体《からだ》はみすみす浅ましくも強盗のために汚されてしまった。妻は愛したくって、あいしたくってたまらないのであるが、それを愛しようにも、その肉体は汚されてしまった。その場合の夫の心ほど気の毒なものはない。その時はただじっと観念の眼を瞑《つぶ》って諦《あきら》めるよりほかはないだろうか。私はそんなことまで考えて、お宮も強盗のために汚されてしまったのだ。まして秘密に操を売っているお宮は、明らさまに柳沢が買ったといえばひどく気に障《さわ》るようなものの、柳沢の他に自分が見知らぬ人間に幾たび接しているか分らない。
 そうも思い反《か》えすと、その柳沢に汚されたお宮の肉体に対して前より一層切ない愛着が増して来た。
「そうだ! これから今晩すぐ行ってお宮を見よう」
 そう決心すると、柳沢が今晩もまた行ってお宮を呼びはしないかと思われて、気が急《せ》けて少しも猶予してはいられない。そして柳沢が買ったのでもお宮に対する私の愛情には変化《かわり》はないと思い極《きわ》めてしまうと、もうこれから早く一旦《いったん》自家《うち》に帰って、出直して蠣殻町《かきがらちょう》にゆ
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