のだ」
 先だってから、
「私コ―トが欲しい。あなた表だけ買って下さい。裏は自分でするから」
 といっていた。私はお前と足掛け七年一緒にいたけれどコート一枚拵えてはやらなかった。それに三、四度逢ったばかりの蠣穀町の売女風情《ばいたふぜい》に探切立てをしていくら安物とはいいながら女の言うがままにコートを買ってやるなんて、どうしてそんな気になったろうかと、自分でも阿呆《あほう》のようでもあり、またおかしくもなって考えて見た。そうすると先き立つものは涙だ。
「ああ、おすまには済まなかった。七年の間ろくろく着物を一枚着せず、いつも襷掛《たすきがけ》けの水仕業《みずしわざ》ばかりさせていた」
 そう思うと、売女《おんな》にたった十五円ばかりのコートの表を一反買ってやるにしても、お前に対して済まないことをするようで気が咎《とが》めたけれど、また
「俺《わし》が、蔭《かげ》でこんなに独《ひと》りの心で、ああ彼女《あれ》には済まない。と思っているのをも知らないで、九月の末に姿を隠したきり私のところには足踏みもしないのだ。あんまりな奴だ。……あんまりひどいことをする奴だ。……ナニ構うものか、お宮にコートを買ってやる! 買ってやる! おすまが見ていなくってもいい、面当《つらあ》てにお宮に買ってやるんだ!」
 誰れもいない喜久井町の家で、机の前に我れながら悄然《しょんぼり》と趺座《あぐら》をかいて、そんな独言をいっていると自分の言葉に急《せ》きあげて来て悲しいやら哀れなやら悔しいやらに洪水《おおみず》の湧《わ》き出るように涙が滲《にじ》んで何も見えなくなってしまう。
 それで当然《あたりまえ》ならば正月着《はるぎ》の一つも拵えなければならぬ冬なかばに、またありもせぬ身の皮を剥いだり、惜しいのばかり取り残しておいた書籍《ほん》を売ったりしてやっといるだけの銭《ぜに》を工夫してお宮の気嫌《げん》をとりにやって来たのだ。
 それを、さぞ喜ぶかと思いのほか、ありがとうともいわないで、何か厭なところへでも行くように怠儀そうにいう。女というものはこんなにも我儘《わがまま》なものか、今に罰《ばち》が当るだろう。と腹の中で思ったがこの間は柳沢と一緒に外に出て、歌舞伎座や鳥安に行ったことがあるので、私もぜひどこかへ連れていきたくて仕方がなかった。それで「この不貞腐《ふてくさ》れの売女《ばいた》め!」と思っ
前へ 次へ
全50ページ中13ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
近松 秋江 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング