そういう経験のない者にはわかるものでもないから、私はただそういったまままた黙り込んでしまった。
「お宮が、雪岡さんを見ると気の毒な気がする。と、いっていた」
 柳沢は、またそういって笑った。
「…………」私はしょげたように黙って笑っていた。
「……今日はお宮いるか知らん。……これからいって見ようか……」
 柳沢は私を戯弄《からか》うのか、それとも口では何でもなくいっていても、その実自分で大いにお宮に気があるのか、あるいはまた影の薄い私が思うようにお宮の顔を見ることが出来ぬのを惨めに思って、お勝手口の塵埃箱《ごみばこ》に魚の骨をうっちゃりに出たついで、そこに犬のいるのを見て、そっちへ骨を投げてやるように、連れていってお宮に逢わしてやろうというお情けかと、私はちょっと考えたが、それはどちらにしたって構わない、とにかく柳沢とお宮と一座したら、両方にどんな様子が見られるか、柳沢にはお宮が好いのには違いない。そう思案すると、
「ああ、行ってもいい」
 これから二人はややしばらく気の置けない雑談に時を過しながら点燈《ひともし》ごろから蠣殻町に出かけていった。
 柳沢は歳暮《くれ》にしこたま入った銭《かね》の中から、先だって水道町の丸屋を呼んで新調さした越後結城《えちごゆうき》か何かのそれも羽織と着物と対の、黒地に茶の千筋の厭味っ気のない、りゅうとした着物を着て、大黒さまの頭巾《ずきん》のような三円五十銭もする鳥打帽を冠《かぶ》っている。私はあの銘仙の焦茶色になった野暮の絣を着て出たままだ。
 小石川は水道町の場末から九段坂下、須田町《すだちょう》を通って両国橋の方へつづく電車通りにかけて年の暮れに押し迫った人の往来《ゆきき》忙しく、売出しの広告の楽隊が人の出盛る辻々《つじつじ》や勧工場の二階などで騒々しい音を立てていた。私はそんな人の心をもどかしがらすような街《まち》のどよみに耳を塞がれながら、がっかりしたような気持ちになって、柳沢が電車の回数券に二人分|鋏《はさみ》を入れさせているのを見て、何もかも人まかせにして窓枠《まどわく》に頭を凭《もた》していた。
「今日いるか知らん?」
 電車を降りると柳沢は先に立って歩きながら小頸《こくび》を傾けて、
「どこへゆこう?」
「さあ、どこでもいいが、その、君の先だって行ったところがよかないか」
 私は、これから後々自分が忍んでゆくところ
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