の人々にそれだけの給金を払はなければ前を勤めて呉れません。勤めて呉れなければ所謂「舞てしまふ」と言ふので、看板を上げて十五日間続かないで、三日四日で止めてしまふ。さうすると、「あの野郎は駄目だよ、看板を上げて三日四日で舞つちまつたよ」と言ふことになります。それで割りを出して、前の人が逃げない様に勤めて貰ひ、十五日間やり通しました。それだから自然苦しくなる訳で、どうにも仕方がない。とうとう掛け持の寄席は何処へ行つても割は席に取られて少しも収入はなくなつて了ひました。何しろ借りが多いので、皆割りで引かれちまふんです。その頃俥屋の日給が二十五銭でした。然るに帰つて来て俥屋に払ふ銭がない、仕方がないから口から出まかせに「おい、お前五円で釣りがあるかい」と訊く、二十五銭の俥代に五円で釣があるかと言つても俥屋の持つてゐる道理がありません。これは分り切つた話で、「持つてゐませんが」と言へば、「ぢや明日の晩一緒にやるよ」と言つて帰へしてしまふ。翌日はどうでも斯うでも払はなければならない、さもなければ引いて行つて呉れない。夏であつたが、仕方がなく昼間の中に一番さきに絽の羽織を質に入れて、そうして今夜は之れで払へると思つて寄席へ行きます。ところで高座へ上るときに、前座が行李の蓋をあけると羽織がない、「お師匠さん、羽織がありません」「ああ嬶の奴が羽織を入れるのを忘れやがつたのだらう、仕方がない羽織なしで勤めてしまふよ」一晩は忘れたで済む。二晩目はそれでは済みません。仕方がないから風邪を引いたと言つて休む。そのうちに高利貸を彼方此方歩き廻はつて算段をし、羽織を受出して、風邪が治つたからと言つて寄席へ出ることになります。ところが終ひには有名になつて高利貸も貸さない、彼奴に貸しても取れないと言ふ。質店も同様です。そこで止むなく家へ二三日閉ぢ籠つたと言ふ様なこともありました。すると又捨てる神あれば助ける神ありで、或る寄席の主人が来て気の毒だからと言ふんで金を貸して呉れ、それでやつと高利貸の目鼻を明け寄席へも出られることになつたといふ、今の人の想像もつかない様なそんな苦しみもありました。
 その頃の貧乏の三大将と言ふのが、亡くなつた三遊亭円右、三代目小さん、それと私で、円右さんなども実に長いこと貧乏をして居りました。晩年には相当資産も作られたやうですが…。
 私も斯様に貧乏に貧乏を重ねて来て、それ
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