南方
田畑修一郎

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)榛《はん》の木の疎林

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]
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 島へ來てもう一月近くになるが、なんて風の吹くところだらう。着いた最初の日、濱邊から斷崖の急坂をのぼつて、榛《はん》の木の疎林、椿のたち並んだ樹間の路を、神着《かみつき》村の部落まで荷物をつけた大きな牛の尻について歩いてゆくとき、附近の林、畑地の灌木などが爭つて新芽をふき出してゐるのを見て、又、路が上つたり下つたりして、とある耕作地の斜面のわきに出たとき、その傾斜地一帶、更に上方になだらかな裾を引いてゐる休火山の中腹のあたりまで、煙のやうな淡緑に蔽はれてゐるのを見て、僕は一二ヶ月素通りしていきなり春の眞中にとびこんだやうに感じたものだ。まだ切るやうに冷い風の吹いてゐる靈岸《れいがん》島で汽船の出るのを待つてゐたのは、つい昨日の晩のことなのだから。
 だが、三日めから風が出た。そして雨。何といふ強い風だらう。島の人は樹木の搖れさわぐのを見て、すぐに西風だとか、ならい[#「ならい」に傍点]の風だとか云ひあてるが、僕にはそれがどこから吹いて來るのかわからない。あらゆる方角から吹き立てて來るやうに思へる。埃のたゝないのが目つけものだが、その代りに鹽分を含んでゐる。海ぎはのたいていの所はいきなり斷崖となつてゐて、まださう古くない熔岩の眞黒いのが切立つてゐたり、ごろごろした岩塊の堆積となつてゐる。そいつに浪が打ちつけ、しぶき、吹き、まるで霧のやうな潮煙りが崖を驅けのぼつて、その廣い傾斜地を濛々と匍ひ上る。耕地の秣《まぐさ》、榛《はん》の木の新芽などは潮煙りをしつきりなく浴びるので、葉末が赤茶けて、鏝《こて》をあてたやうに縮み、捲き上つてゐる。風はなかなかやまない。終日同じ強さで、二日も三日も吹いて吹いて吹き拔ける。まるで、空のまん中に穴をあけようとかかつてゐるかのやうだ。
 風の後、一日か二日穩かな日が來る。何といふ明るい倦怠と恍惚を誘ふ空氣だらう。樹々の芽はやつと勢をとりもどし、艶々としはじめる。山鳩が固い羽音をたてて林から林へと眞すぐにとぶ。鶯、アカハラ、啄木鳥《きつつき》、そのほか名も知れないいろんな小鳥どもが、啼きかはし、椿の密生した間を、仄暗い藪の中をとびまはり、すり拔ける。山の斜面では放牧牛が、ある奴はずつと高手に、他のある奴は下方に、又横に、のろのろと動いて、その黒と白との斑《まだら》な胴體が鮮《あざや》かな目のさめるやうな印象を與へる。だから、どんなに遠くにゐる牛でも、林の中にぢつと蹲《うづくま》つてゐるのも、すぐに目につく。そしてびつくりするほど大きく見える。
 そんな日をみて、僕は神着村から四里ほどはなれた阿古村に移つた。そしたら又風だ。やがて雨が來る。戸を閉めきつたうす暗い部屋で、はげしい物音が四方から押しよせ、ときどき遠い鈍い底唸りのやうな音がどこともなく起つて、それはやがて恐しい壓力で、雨と音を倍加して、雨戸の外、トタン屋根の上にのしかゝつて來る。何を考へようにも、何をしようとしても無駄だ。身體の隅々まで物音がはいりこんで犇《ひし》めき合ふ。そしてあの鈍い、身ぶるひを感じさせる遠い風の底唸り。それに慣れることは到底いかない。永い永い脅迫。たちまち風向きが變る。と、今度は北側からふきつけ、急に家の土間へ水が流れこんで來る。土間はまるで小さな川だ。それまで南側の隙間を防いでゐた板をとり除いて、今度はそこから水を戸外へ通り拔けさせる。ああ吹け吹け。吹いて吹いて何もかもぶち壞してしまへ。
 風はやつとないだ。牛の鳴聲が林の向うから聞えて來る。僕のゐる部屋とは反對の端にある、こゝの家のバタ製造の作業場では、分離器を※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]す音が遠い唸り聲をたてる。僕は牛小屋の前を通つて、そこの下手の草地につながれてゐる大きな種牛のむくれ上つた逞ましい肩を飽きず眺めて、それから海邊の崖上に出た。崖の上には枯草が厚く生えたまゝでゐる。崖縁を細い路がついてゐる。それを行くと廣い突鼻《とつぱな》の上に出た。眞黒い熔岩に縁どられた枯草地。僕はそこに寢ころんで煙草を吸つた。
 微風が北方からやつて來る。南方の海上には、海からいきなり立上つて固まつた感じのする御藏《みくら》島の青い姿が見える。その島と、僕のゐる三宅《みやけ》島との間の海面には、潮流が皺になつて、波立つて、大きく廣々と流れてゐる。やがて、僕は身體の向きを變へて北方を眺めた。青い。何もかも青い。神津《かうづ》島、式根《しきね》島、新《にひ》島が間を置いて列《つらな》
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