つてゐる。その彼方には伊豆半島あたりなんだらうが、紫紺色に煙つてゐて何も見えない。遠い遠い色だ。その奧から小さい雲がいくつもいくつも産れて來て、あるものはしだいに大きく頭上に近づきながら消え、あるものは北から西へかけての海上にゆるゆると並んで動いてゆく。なんといふ魂をひきこむ奴等だ、あの雲どもは。それを見てゐるうち、僕は突然思ひがけない悲しみの情に捕へられた。僕は思ひ出したのだ、東京に置き去りにして來た筈の僕の生活を、この二年間のさまざまな無意味な苦しみを。それは無意味といふより仕方のないものだ。そして、今だに僕を苦しめてゐる。僕はそれから逃げ出すことはできないやうな氣がする。
島へ來てから、僕は妻と子供のことを一番考へるやうになつた。別段考へるつもりはないのにやつて來る。重苦しい、名状しがたい嫌な氣持が伴ふ。昨日の朝も、僕はこんな夢を見た。――僕は何かのわけで僕の子供を殺した。とさう夢の中ではつきり解つてゐた。身體中が刃物で切りまくられてゐるやうに感じた。それから僕が殺したのは子供だけではなく、妻をもであることが何故ともなく解つて來た。どうしてかういふことになつたのだらう、と考へた。そのことはもうとつくに僕の中で豫約されてゐたことのやうに感じられた。不可解な抵抗しがたい壓迫と、悲しい實に悲しい心持が、僕を殆んど何も解らないくらゐにした。するうち、僕は變に堅い椅子に腰かけてゐて、眼の前には安食堂の卓子《テーブル》みたいな机があり、その上に珈琲《コーヒー》のやうな色をした、紅黒い、どきどき光る液體の入つてゐるコップが置かれてあつた。それを見てゐると、僕はそれで子供と妻を殺したことがわかつた。すると死んだ筈の妻が僕の斜め前にゐて、白けた大きな扁平な顏を僕の方につき出して、あなたは私と子供を殺したんですよ、と泣きながら言つた。僕は答へることができなかつた。妻はやがて、彼女の顏を僕の顏にすりよせるやうにして、それを飮みなさい、と云つた。僕はどんなに恐《こ》はかつたらう。あなたは子供も私も殺したんだからあなたもそれを飮むのですよ、と彼女は又變な聲で云つた。何といふ嫌な、恐しい、避けがたい脅迫だつたらう。僕は默つて、その液體を眺めてゐた。それは僕が見た瞬間鈍く光つて搖れた。彼女はそれきり默つて、僕を見て、僕が飮むのを待つてゐる。僕はどうしても飮まなければならない。何故かしらないが、飮まなくてはいけない。飮むよりほかはない。僕は嫌だつた。身體がつぶれるほど嫌だつた。だが、嫌といふことは許されない。彼女は前のまゝの形で待つてゐる。身動きもしない。そのいやな眼。なんて憎い眼だらうと思つた。だが、僕にはもう憎むことは許されてゐないのだ、といふ氣がした。彼女はもう死んでゐるのだ。僕は、彼女と同じく死んでいつた子供のことを考へた。たまらない、叫んでも叫びきれないほど悲しい。その上に、僕もまた死ぬのだといふ苦痛が、重たい、重たい、家がくづれかゝつたやうに僕を壓しつけた。それは永い、とても永い時間だつた。――そして、僕は目がさめた。ああ、子供は殺さなかつた。よかつた、よかつた、と思つた。それから、妻も殺したのではなかつた、よかつた、よかつた、と思つた。
だが、僕はしばらくの間、重苦しい嫌な氣分から脱けることができなかつた。勿論、これはこれつきりのもの、一時的のものだ。だが、それは僕の理性が云ふことで、別のところでは、僕はそれが一時的のものだとは決して信用できない。安心できないのである。この二年間の病氣の結果、僕はさういふ風になつてしまつた。
僕にはこれに類することが何度か起つた。僕はいろんな恐いことを、夢の中で、永い永い半睡の中で見た。その頃、僕の一家は借金で暮してゐた。妻は自分で働くことを考へついて、朝早く出かけて、夜になつて歸る。僕は自分の部屋から出なかつた。といふより、出られなかつた。ひるも夜も床の上に横はつてゐた。そして、ひるも夜も目ざめてゐた。夜は早くて、ひる間は永かつた。だが、そんな區別が果して僕に何を意味したことだらう。僕は二六時中眠れなかつた。子供は僕のところへよりつかなかつた。そして殆んど聲をたてずに一人で遊んでゐた。僕は自分の無力を感じ、絶望を感じて、一人で聲をたてて泣いた。僕には時間といふものがわからなくなつたり、それが大きい音をたてて流れるのを感じたりした。身體の中にはいつも大きな眞暗な穴が開いてゐた。今まで僕の心を占めてゐたもの、確實であつたもの、望んでゐたもの、それらの悉《ことごと》くが消えて、輪郭がぼやけて、後には何の代るものがなかつた。
無意味な、曖昧な、信ぜられないものばかりが殘つた。――僕はそれらのことを書くのに困惑を感ずる。正當な、滿足すべき言葉がないのだ。そして又、それらの僕の周圍に起つたこと、僕の中に起つ
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