てゐた。臺所では物音がしてゐたが、誰も出ては來ない。彼はふいにすつと立つて、小屋の外へ出て、そこに置いてあつた小桶の中に手をつゝこんだ。すばやく何かつかむ。そして、小屋へは入らずにそのまはり半分を何氣ないふりでぶらつき歩きながら、手にしたものを口にはふりこむのが、煙拔きのために開けてある窓からよく見えた。又歸つて來た。しやがんで火にあたりながら臺所口に氣をつける。又すつと立つ、桶に手を入れる。前と同じやうにして、小屋を半分※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]つて歸つて來る。その間、彼は僕には全然注意を拂はなかつた。そのために、彼は少し前に風呂の方をよく見たのだらう。それらの動作は普通の人には見られない素速さと狡猾さをもつてなされた。
ある午後、僕は海岸を一※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]りして、脊を沒する深い藪の中の路を拔けてお宮の裏手へ出たとき、そこらで人の話聲を聞いたやうに思つたが、拜殿の前の石段に立つて境内をすかして見たが誰もゐない。少し行つたとき、僕は誰かが參籠所のうす暗い中につゝ立つてゐるのを見た。昌さんであつた。
「何してるの」と訊くと、彼は例の考へこんだ憂鬱さうな樣子で、
「えゝお詣りしてるんです」と答へた。
彼は東京の商業學校を卒業間際まで行つたとかで、そのせゐか、彼の口調には學生らしい所が甚だ多く殘つてゐた。
「お詣り?」と僕は訊きかへした。
「えゝ、お籠《こも》りしてるんです」と彼は憂鬱さうに答へた。
僕はその建物の中をのぞきこんだ。内部は暗くて、板の間で、埃でいつぱいだつた。彼は僕の前につゝ立つたまゝ、一人遊びをのぞきこまれた子供がやるやうに、そのどこを見てゐるかわからないやうな斜視の眼で、警戒するやうに僕をぢつと見返してゐた。
「かへりませんか」と云ふと、彼は
「もつとゐます、さうです」と答へた。
何か云ふたびに、最後に「さうです」をつけ加へるのが彼の癖であつた。そして、彼は僕を避けるやうに暗い隅へ行つて、板壁に背を凭《よ》りかゝらせてうづくまり、立膝の間に顏ごと押しこんで、何か呟《つぶや》きだした。時々、くすくす笑ふ。もう一度歸へりをうながすと今度は「えゝ、歸ります」といつて立ち上つた。だが、高い板敷から危つかしく下りて五六歩ついて來たかと思ふと、くるりと後がへりをして、「まだゐます、さうです」と云つて、又内部に隱れてしまつた。
彼にも機嫌のよい日がある。彼の顏からはあの憂鬱な表情が消え、長い身體をふり立てるやうにして、あちらこちらと歩きまはり、十歩ばかり走つて見、誰彼となく「今日は」と云ふ。そんなとき、近所の子供が來てゐると、彼は全く有頂天になる。よろめくやうに、忙しげに、子供たちの周圍を歩きまはつて、「そらそら、レン子ちやん」とか、「危いよ、走るところぶよ」とか叫ぶ。調子外れの喜悦の表情が、彼の黄ばんだ顏に浮ぶのである。
こゝの家には今一人、民さんといふ四十あまりの、腦の惡い男がゐる。短躯で、禿頭で、鼻が小さく鉤形《かぎがた》に曲つてゐて、眼の輪郭がはつきりしてゐて、見てゐると彼の日に燒け土と垢で汚れた風貌の中から、何となく伊太利《イタリー》の農夫のやうな印象が現はれて來るのである。彼の表情から魯鈍を發見することはできない。彼はよく働く。六七頭の牛を、毎朝山へ放牧につれて行く。彼はそこで牛の番をしながら日を暮して、夕方になると薪を背《せお》つて、牛を追つて山から下りて來る。一日中家にゐないので僕ははじめの中彼とあまり會ふ機會がなかつた。僕は山へ放牧に行つてゐる彼をたづねて、一日寢ころんで彼の話を聞くために、三日ほどつゞけて山へ行つてゐたが、彼も牛も探しあてることができなかつた。
ある夕方、家の裏手で山から下りて來た彼に會つたので、そのことを云ふと、彼は腕組みをして、兩脚をふんばつて、しげしげと僕を眺めながら、
「あゝ、あなたですか、下駄の跡がありました」
と云つた。
彼はその後、山へ出がけに必らず僕の部屋をのぞいて、涎《よだれ》の音を少したてながら、「山です、あすこの方です」ともつれるやうな口調で指してみせるのであるが、僕には一向その見當がつかないので、たうとう山へ彼を訪問することは斷念してしまつた。
民さんはその禿頭に、青地の手拭ひでつくつた變な帽子をかぶつて出かける。山で温い日に寢ころんでゐると、牛が寄つて來て彼の禿頭をなめて目をさまさせる、と云ふ。家の人が、僕にさう話して、
「なあ、民さん、牛がなめるつちふ」と笑ひかけると、彼は全く他意のない顏で、
「可愛いゝ奴ですよ。よく知つてますよ」と眼を小さくして笑つた。
夜なべの仕事がすむと、彼は僕の部屋へ遠慮しいしいやつて來る。そして、手紙を書いてくれ、と云ふ。彼には東京や千葉に親戚があるが、どこでも彼の來るの
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