彼女との中に何が起つたかを見たかつたのだらう。僕は、いかにも彼らしいと思つて、少し可笑《をか》しかつた。そして、それだけであつた。
 僕はどんな感情も現はさなかつた。しばらくして、僕は別れを告げた。僕は門を出た。彼女はさつきまで僕たちと坐つてゐた座敷から、門口の見える所の窓まで來て、窓硝子を急いで開けて、さやうなら、と云つた。
 彼女の聲には或る押へられた感情がこめられ、それは何よりも明らかに僕の耳に聞えた。僕はふり向くことをしないで去つた。何かが、僕を押しとゞめたから。それだけだ。あゝ、それだけの無用さがどうしてこんなに、今にいたるまで僕に或る印象となつて殘つてゐるのか。僕はそれを大切にはしない。だがそれは殘つてゐる。そして、しばしば僕に現はれるだらう。――
 僕がこゝの家に着いたときは夕方であつた。僕は風呂へ入つた。それは母屋《おもや》の前庭に獨立して建てられてある一軒の小屋の中にあつた。そこへ入るや否や、僕は猛烈な薪の煙のために息がつまり、眼にはひつきりなく涙が出た。入つたところは小さい土間で、竈《かまど》が入口のところに二つ並んでゐる。その横に風呂桶があつた。煙は風呂の焚口からも、二つの竈からもいぶり出てゐた。土間の一方には板敷があつて、そこには小さな手提ランタンが置いてある。そのうす暗い明かりで、板敷の向うは三疊ほどの疊敷になつてゐること、周圍の板壁は眞黒に煤けて、方々に割れ目ができてゐて、そこから風がふきこみ、煙をうづまかせ、板壁には衣物のやうなものがいくつか掛けられて、疊敷のところには汚い垢じみた寢蒲團が何枚かつまれてあるのを見た。
 風呂の中は恐しくせまかつた。よほどうまく湯の中に身體を入れたつもりでも、胸から上と兩膝とはまる出しであつた。僕は苦心して胴と兩脚をヱビのやうに折り曲げた。そのとき、小屋の隅、蒲團のつまれたあたりで、奇妙な唸り聲がした。すかして見ると、綿のはみ出た蒲團の下で何か動いて、そこには誰かゐるのである。僕はすぐに、その唸り聲の主はこゝの家に預けられてゐると、前以て聞いてゐた白痴だと察することができた。だが僕はまだ見たことはないのだし、こちらは風呂桶の中だし、又相手の姿が見えないのでうす氣味惡くて仕方がなかつた。暗さは暗し、風呂桶のわきには板壁との間に僅か二尺ばかりの空間があるきりで、身體を洗ふ場所とては見つからなかつた。僕はいゝ加減に温まると、そのまゝすぐに出た。
 翌日その白痴を見ることができた。彼は裾の方が一尺ばかり破れてブラブラに下つてゐる、汚れた紺絣《こんがすり》の着物をきて、小屋から出て、忙しさうにせかせかと歩いて、上半身を左右に搖すぶるやうにして、臺所口の方へ、そこから井戸端へと、ふらつき動いた。彼は僕が庭先に立つてゐるのを認め、しばらく眩《まぶ》しげにこちらを眺めたかと思ふと、急に人なつこい微笑をうかべて、お辭儀をした。そして小屋へ入つたが、一寸たつと又出て來て、母屋の日あたりのいゝ縁側のわきにうづくまつて、立膝の上に兩腕をつかへて頬杖をついた。家の人が彼を呼んで、僕に挨拶しろと云ふと、彼は聞えたのか聞えないのか、曖昧な、煩《うる》ささうな表情をして、ぶつぶつ口の中で何か云つてゐたが、やがてひよいと立上ると、僕の前に來てお辭儀をした。彼は三十だといふことだが、年とつたやうな又若いやうな顏をしてゐた。何かしら分裂した二つの表情のやうなものがあつた。頭は身體に比較して大きく、斜視で、どの眼が僕を見てゐるのかわからなかつた。何か云ふとき、極めて眞面目な、物憂い表情をうかべる。彼は又もとのうづくまつた姿勢にかへつた。そして前方を、桑畑の方を眺めてゐたが、突然のやうにその深く考へたとも見える憂鬱さが消えて、奇妙な、恰好のとれない顏になつた。何かが彼の眼に入り、彼の興味を著《いちじる》しく惹《ひ》いたのである。彼は眼を細めて、一所をぢつと注視した。僕は彼の興味をそんなに惹きつけたものが何であるかを知らうとして、彼の視線を追つたが、何一つそれらしいものは見つけることができなかつた。
 彼は働くことが極端に嫌ひである。一日中でも蒲團をかぶつて寢てゐる。氣がむけば、天氣だらうと、雨だらうと、山でも林でも寢て歌をうたふ。燐寸《マッチ》を恐れて、見せると逃げる。そしてひつきりなしに喰物をほしがつた。僕はその後のある夕方、風呂に入つてゐた。そこへ昌さん(彼の名は昌夫といふ)が歸つて來た。彼は小屋の中へ入つて、内部は煙でいつぱいなのと、例のうす暗いランタンのために、誰が風呂にゐるのかよく解らなかつたらしい。彼は永い間氣むつかしげにぢつとこちらに眼をこらしてゐたが、僕であるのに氣づくと見るのをやめて、入口の傍の竈の口に股をひろげてしやがみ、火にあたりながら開いたまゝの戸口をとほして向うの臺所口をぢつと眺め
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