減に温まると、そのまゝすぐに出た。
 翌日その白痴を見ることができた。彼は裾の方が一尺ばかり破れてブラブラに下つてゐる、汚れた紺絣《こんがすり》の着物をきて、小屋から出て、忙しさうにせかせかと歩いて、上半身を左右に搖すぶるやうにして、臺所口の方へ、そこから井戸端へと、ふらつき動いた。彼は僕が庭先に立つてゐるのを認め、しばらく眩《まぶ》しげにこちらを眺めたかと思ふと、急に人なつこい微笑をうかべて、お辭儀をした。そして小屋へ入つたが、一寸たつと又出て來て、母屋の日あたりのいゝ縁側のわきにうづくまつて、立膝の上に兩腕をつかへて頬杖をついた。家の人が彼を呼んで、僕に挨拶しろと云ふと、彼は聞えたのか聞えないのか、曖昧な、煩《うる》ささうな表情をして、ぶつぶつ口の中で何か云つてゐたが、やがてひよいと立上ると、僕の前に來てお辭儀をした。彼は三十だといふことだが、年とつたやうな又若いやうな顏をしてゐた。何かしら分裂した二つの表情のやうなものがあつた。頭は身體に比較して大きく、斜視で、どの眼が僕を見てゐるのかわからなかつた。何か云ふとき、極めて眞面目な、物憂い表情をうかべる。彼は又もとのうづくまつた姿勢にかへつた。そして前方を、桑畑の方を眺めてゐたが、突然のやうにその深く考へたとも見える憂鬱さが消えて、奇妙な、恰好のとれない顏になつた。何かが彼の眼に入り、彼の興味を著《いちじる》しく惹《ひ》いたのである。彼は眼を細めて、一所をぢつと注視した。僕は彼の興味をそんなに惹きつけたものが何であるかを知らうとして、彼の視線を追つたが、何一つそれらしいものは見つけることができなかつた。
 彼は働くことが極端に嫌ひである。一日中でも蒲團をかぶつて寢てゐる。氣がむけば、天氣だらうと、雨だらうと、山でも林でも寢て歌をうたふ。燐寸《マッチ》を恐れて、見せると逃げる。そしてひつきりなしに喰物をほしがつた。僕はその後のある夕方、風呂に入つてゐた。そこへ昌さん(彼の名は昌夫といふ)が歸つて來た。彼は小屋の中へ入つて、内部は煙でいつぱいなのと、例のうす暗いランタンのために、誰が風呂にゐるのかよく解らなかつたらしい。彼は永い間氣むつかしげにぢつとこちらに眼をこらしてゐたが、僕であるのに氣づくと見るのをやめて、入口の傍の竈の口に股をひろげてしやがみ、火にあたりながら開いたまゝの戸口をとほして向うの臺所口をぢつと眺め
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