かしら、僕に行くことを拒ませた。彼女と會ふことの不幸を、僕は四年前に考へ拔いたのだ。彼女が結婚したと聞いてからはなほさら、この決心は強まつた。あゝ、どんなに行きたかつただらう。どんなにしばしば彼女のことを考へたことだらう。どんなに彼女が僕の日常の時々に、僕の空想の中に現はれたことだらう。それがどういふものかよく知らない。彼女を空想することは僕の生活の少からぬ部分であつた。彼女を考へることによつて、どんなに僕の心はかきたてられたことだらう。だが、僕はそのときになつて彼女に會ふことを恐れなくなつた。何が僕の中で起きたのかは知らない。これまでどんなに會ふことを望み、又恐れたことだらう。會へばかならずや、僕は僕であり得ず、彼女をもかき亂しはしまいかと恐れた。あゝ、彼女はそつとして置かなくてはいけない。僕は彼女の生活の埒外《らちぐわい》にゐなければならぬ人間だ。
だのに、僕は今それらの意味の脱落してゐるのを感じた。僕は躊躇することなく、何も考へることなく行つた。僕は何も期待しなかつた。僕に妻子があるやうに、彼女には今夫と子があるのだ。僕は誓つて云ふが何ごとも期待せず、何も恐れなかつた。今さら何が起りうるといふのか。それに、何が起つたつて、彼女に動搖が起り、彼女の夫に苦痛を與へたつて、それが何だらう。彼女の夫には、僕は何度か會つてゐた。ずつと以前から、彼は僕の知己の一人であつた。僕は或るとき、彼と永いこと話しこんだことがある。それは或る影響を與へた。彼は何もかも知つてゐる。そして、僕の今もつて彼女に會へさうな機會を一切さけてゐる理由も知つてゐる。彼は或る種の男だ。僕は彼の或る所が好きだ。又、彼には僕を苛立《いらだた》しめる何かがある。僕には、僕をも含むそれら一切の中に何となく滑稽なもののあるのを感じてゐた。僕はそれを嘲つてやりたい氣持を持つた。
彼女は僕の來たことに氣づいて、しばらく隱れてゐた。少くとも出ては來ようとしなかつた。彼女の夫が先きに聲をかけた。それが許しででもあるかのやうに、彼女は晴れやかなよく透る聲で僕に挨拶した。
「今日は」と僕は挨拶した。聲のする方に向つて。彼女は僕にお茶をのみに來い、と女中を呼びによこした。僕は彼女と夫との家に行つて、縁側に腰をかけた。僕は彼女の方をまともに見ることができなかつた。彼女の夫は僕を見、それから彼女を見た、ぶしつけに。彼は僕と
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