だが、それもこれも家屋敷が銀行に引渡される迄のことであつて、もう嫁いでゐて云はば身の固まつた姉達にはともかく、男の兄弟三人の生活と云ふものはそれ以来全く思ひ思ひの方向に絶ち切られてしまつた。次男の昌平は鉱山師だと云ふ新しい養父に連れられて、南の方のK市に行つた。長男の竜一には学資として多少の金が取除かれてあつたが、始の中は止めると云ひ張つてゐた学校の寄宿舎へ、宥《なだ》められて立ち去つた。彼には最早帰るべき家と云ふものがなく、先祖の位牌は彼が一家をなす迄といふ約束で幾の家に預ることになつた。
 軍治は一人一人立ち去つて行く親戚の者や姉達から、幾は最早「母」であつて「小母さん」ではないことを煩《うるさ》い程言ひ聞かされた。余り執つこく言はれたので、軍治はかへつて不安になつた。幾の顔を見ると、その事が頭に浮び、変に言ひ難かつた。口に出しかけてもぐもぐしてゐると、幾はしかけてゐた仕事を止めて、軍治の方を向いたりした。それが「母」と呼ばれるのを待つてゐた様子なのかどうか、軍治には解り兼ねた。しかし、或る時、何気なく、戸外から走りこんで来たはずみに「母さん」と大声に言つてしまつた時、幾は軍治にもそれと見てとれるほど嬉しさうな顔をした。鈍い、霧の中からだんだん明瞭に近づいて来る人声のやうに、軍治の中で何か響き答へるものがあつた。
 幾から子供用の新しい番傘を渡されたことがある。小学校へ通ふ子供は誰も自分の傘に遠目にも解る程大きな字で姓名を書いて置くのが習慣だつた。軍治の開いて見た傘には黒々と、中村軍治と云ふ字が真新しく浮いてゐた。今でも町の人は彼を呼ぶのに「鳥羽さん」と言つてゐた程であつたから、軍治にはこの新奇な不慣れな姓が恥しかつた。軍治は家の出口で、きまりが悪い、と言ひ言ひ、傘を開き目にしたり閉ぢたりした。すると、それまで笑顔で眺めてゐた幾が不意に恐い顔をし、どこがきまりが悪いの、と言つた。軍治は泣き顔をして傘を肩に被《かぶ》さるやうにし、道の端ばかりを見るやうにして歩き出したのだが、突然の幾の権幕の意味が解らず、無闇と辛かつた。
 旅館とは云ひ乍ら昔風の大きな家を改造し、建増したものであつて、外見は普通の家と殆んど変りのない格子戸が廻してあり、内部へ入ると広い式台のある玄関から真直ぐに長い光る廊下が奥に伸びてゐた。その廊下は三棟の二階家をつないでゐるもので、戸外から覗いてみると途中にある二つの中庭から、樹木の緑を混へた光が廊下に映り、足音をたてずに忙しく往来する女中達の白足袋などが鮮《あざや》かに動いてゐたりして面白かつた。
 初めの中、軍治は物珍らしく、長い廊下を走つてみたり、客用の器具を持ち運びする女中達の手伝をすると云ひ出してきかなかつたりした。朝に晩に、見知らぬ多数の客が出入して、中には度々来るので軍治の顔を見覚え「坊ちやん、来い」と言つて客室へ連れこみ、菓子を呉れる客もあつた。酔ひ痴《し》れて、廊下をふらり、ふらりよろめき歩き、面白がつて眺めてゐる軍治に、卑猥な指の作り方をして見せる男もあつた。常に家中を見廻り歩き、台所で口汚く女中を叱りつけてゐた幾が、さう云ふ客に向ふと、まるで別人のやうに物柔かな顔になり、腰を低くするのが軍治には恥かしく、腹立たしい気持だつた。
 夜は一時か二時に寝、朝は朝で女中よりも先に起き出る幾は、昼間の閑《ひま》な時刻にはごろりと居間の暗い片隅で横になり、直ぐに鼾《いびき》を立てた。すると、その時分はもうすつかり老いこんで腰の曲つた蒔がごそごそと一人物音をたてて、押入から蒲団を引出し、寝てゐる幾に掛けてやるのだが、見るとそれが敷蒲団であつたりした。
 忙しくて食事の時間が少しも決まつてゐなかつた。朝学校へ行く前など、軍治はよく一人で食膳に向つた。直ぐ傍の台所で、女中達が拭き並べる客膳の音、板場の罵る声、幾が帳場から台所、客室への挨拶などで小速に踏み歩く足音、それらが高く入り乱れ、間断なく響いた。面倒を省く為に、軍治は客と同じ食事を宛《あ》てがつて貰つてゐた。毎日殆ど変りのないもので、終ひには刺身、吸物と云ふやうな食事を見るのも嫌な気がして来た。夜の食事が一番遅れ勝ちであつた。待つてゐてもなかなかなので戸外へ遊びに出ると、近所の友人やその弟達が湯上りらしい照《て》か照《て》か光る鼻をして、のんびりと遊んでゐる中へ這入ると、軍治は自分だけが汚くよごれ、腹の空いた顔をしてゐるやうな気がし、誰にも云へない卑屈な寂しさを味つた。その間にも用意が出来たかどうか見に帰つたが、居間には蒔が視力の薄い眼で自分だけの食残りの皿を出してゐるだけなので、軍治は又何気ない顔で、友達の間に帰つて来たりした。
 兄姉達と戯れ笑ひ乍ら明く楽しい灯の下で食卓をかこんだ頃の事が忘れられず、軍治は幾を待つてゐるのだつたが、幾の来る時には食事が冷え切つてゐたりした。幾は鳥羽家にゐる間は忘れてゐた晩酌を、その頃から始めるやうになり、くどくどと蒔を捉《とら》へては商売の辛らさを言ひ、時には愚痴の涙まじりに盃を重ねるのだつた。しかし、幾が軍治の記憶にもない頃の鳥羽家の様子を話して聞かせる時には、軍治は楽しく聴入るのだつた。父の気難しかつたことを言つては丁度お前に似てゐる、と軍治を指して笑つた。それから又、母が幾の家へ遊びに来た時のことも話して聞かせた。母は煙草が好きで咽喉《のど》が悪いと云つて咳をし乍らも、煙草を手から離さないやうにしてゐるので、幾がそれでは身体に悪からう、と云ふと、母は、病みつきだからこればかりはね、と笑つてゐたが、矢張りあの煙草好も胸を悪くする因《もと》だつたらう――それを話し乍ら幾はどことなく顔を伏せるやうな風があつた。軍治はその時奇妙な不安を感じた。彼の頭には姉から聞いた母の死前後の模様が残つてゐるのである。幾のことがあつたし、母は随分死ぬ迄気にかけてゐたのだ、と聞いた。母の記憶はなく、幾の親味《したしみ》だけが胸にある軍治には、それも唯聞いてゐるだけであつたが、この場合になつて不意に湧き上り、重々しく胸を打つた。意味はよく解らなかつたが、頭の中の物が右と左に引き離され、何か安心してゐられない気持だつた。
 ある夜、客が混んで、室が空くまで暫らくの間、二人の男が軍治達の居間に座をとつた。客の商人と、今一人は客を訪ねて来た町の人であつたが、酒を飲み、歌ひしてゐる中にだんだん乱れて来た。冬も夜更けであつたから、軍治は、眠くはあり、隅の炬燵《こたつ》で小さくなつてゐた。傍には蒔が寝てゐた。すると、客の一人は年老いた蒔の寝顔を眺め、卑猥なことを口にした。軍治は炬燵の上に頬を押しあて、眠つた振りをしてゐたのだつたが、かつと胸が熱くなり、起きなほつて男を睨みつけた。しかし、酔ひ痴れてゐる男は軍治が眼に入らないらしく、もう相手の客と何事か笑ひ興じてゐた。軍治は立つにも立てず、蒲団の下で炬燵の櫓《やぐら》をしつかりとつかみ乍ら、ぶるぶる小さい身体を顫はせた。
 その頃から軍治は来る客来る客に憎しみを覚え始めたのだつたが、それを幾にどう言つたらいゝものか解らなかつた。肩を張り廊下を踏み鳴らす客、傍若無人に女中を叱りつける客、それに対して、女中はもとより、幾も亦|唯々《ゐゝ》として言ふなりに動きまはるのが、見てゐて軍治は苦痛だつた。家中どこにゐても楽々と手を伸し、足を投げ出すやうな屈托のない明さはなかつた。軍治は鼠のやうに、客の眼を恐れ、客の気配を感じ、居間から女中部屋へと、安息の場所を探して逃げ歩いた。
 軍治は日に増し癇癖が強くなり、何かにつけてぶつぶつ幾に不足を云ひ「そんなこと構つてゐられるもんですか」と言ひ棄てて立去つた幾が、次の瞬間には襟元を合せ、小柄な肩に控目な様子をつくろつて、小刻みに廊下を客室へ行くのを見ると、いきなり手許の皿などを庭に投げつけ、居間にのけぞつて、手で畳を殴り足で障子を蹴りつけするのだつた。
 さう云ふ時に、蒔は不自由な足を引きずつて近づき「これはどう云ふ児か」と老人らしい筋を額に見せると、軍治は大声に喚き出し、蒔を罵り、今度は又立ち上つて手あたり次第に物を四方に投げつけ、踏みつけ、女中達が呆れてゐる前を盲滅法に家の外へ走り出ると、切なさと後悔の念を交へた頭から胸一杯の混乱に唯ぼうつとなつて、うろ覚えの河沿ひの道を歩いて行つた。姉の所へ行く気だつたが、町を離れると路面は埃で白く唯遠くつながり伸びてゐて、山の重り合つた裾に消え込み、瀬の音が急に耳について来ると、軍治は路傍に蹲《しやが》みこんで、歩いて来た道、眼の届かぬ行手に頭を廻し、母よ、母よ、と意味もなく、声もない呼声に胸をかきむしられた。
 夜になつて、疲れ鼻白んで帰つて来ると、幾は奥から走つて出「どこへ行つてゐたの、どこへ」と訊いたが、軍治が黙つてつゝ立つたまゝでゐると、その手をとり居間に引いて来た。見ると、幾と軍治の食膳がいつになくきちんと並べてあり、幾は自分から先に坐つて軍治をも膳につかせ、親しみ深い手つきで飯を盛つた。軍治は甘酸つぱい気持の中で温和《おとな》しく箸をとり上げ乍ら、思ひ出が今又帰つて来たやうで楽しく、又、幾の心を試したやうな気にもなるのだつた。
 それ迄は別にこれと云ふ際立つた意識もなく過して来たのだつたが、軍治の脊丈が眼に見えて伸び始める頃になると、彼の中で或る物がはつきりと眼覚めて来た。それは今も猶鮮かに残つてゐる生家の記憶、云はば鳥羽家の気質であつた。
 この頃では蒔はますます老いこみ、腰がひどく曲つてゐるので着物の前が合はなかつたりして、子供のやうにだらしなかつた。幾は幾で、小鬢には白髪も少しは見えて来たが、相変らず客を送り迎へする時には見ちがへるほどしやんとなり、いそいそとして客の後になり先に立ちする様子を見ると、軍治はこれが幾の身についてゐるのではないかとも思はれ、又、この商売を楽しんでゐるのかも知れぬ、と疑ふのだつた。
 何時誰からともなく、幾のずつと前身は町端れの煮売屋で、他人からでも名前を呼び捨てにされてゐた、と聞き覚えてゐた。「小母さんは怜悧《りかう》な人だから、自家《うち》へ来れば他人から呼び捨てにされないと、ちやんと知つてゐたんですよ」と姉からも聞いたことはあるが、さう云ふ意味の事は遠縁の老婦も言つてゐたし、幾の家へ来てからも、台所で下働きをしてゐる話し好きな老婦が問はず語りに聞かせて呉れた。その時は、なにも特別な感情を与へはしなかつたが幾や蒔の様子に何か軍治の身体の底の方で喰ひ違ひ、時には歯の軋《きし》むやうな嫌らしさを起させる所があるのを感じたりするいまでは、それ等の智識が特別な意味で軍治の頭に蘇《よみが》へるのだつた。
 幾の手に引かれ、身の廻りの世話をして貰つた記憶はまざまざと今も残つてゐるのだが、その親身な感じで今の幾を見ると、これがあの幾だつたのか、と云ふ気がした。ここ数年間幾はたゞ客の方に気をとられてゐて、軍治の着物の世話などは全くの他人任せになつてゐたからよく寸法が狂ひ、仕立下しの着物が引きずるほど長かつたり、胴が窮屈で着られなかつたりした。
 客に怒鳴られ、平謝りに詫びてゐる幾を見、少しの落度もないやうにと忙しく走り廻つてゐる幾を見すると、軍治は自分が卑《いや》しめられてゐると感じた。それも重なり重なると、着の身着のまゝごろ寝して枕を外し、腕を伸し、大口を開けて鼾声を立てる幾の格好などが一々|厭《いと》はしく、嫌らしく、これは自分の母ではないぞ、と、軍治は心|密《ひそ》かに自分に言ひ聞かせるのだつたが、それにしても最早自分の身を寄せる所はこの幾より他にないと云ふ考へも湧き、じめじめと卑屈に客の顔色を窺つたりした後では、又しても癇癪を起し、何と言つたつてお前はこの俺を息子にして喜んでゐるのではないか、と口には出さないまでも、手荒にガタピシと障子襖を開け立てし、果ては幾に喰つて掛かつて、幾が逃げかゝると猶も追ひつめ、手こそ振上げなかつたが、狂ほしく声を限りにが鳴り立て、幾が堪りかねて、客に聞えるから、となだめにかゝると、客と此の自分とどつちが大事なんだ、と青くなつて足を踏み鳴
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