ついて来ると、軍治は路傍に蹲《しやが》みこんで、歩いて来た道、眼の届かぬ行手に頭を廻し、母よ、母よ、と意味もなく、声もない呼声に胸をかきむしられた。
 夜になつて、疲れ鼻白んで帰つて来ると、幾は奥から走つて出「どこへ行つてゐたの、どこへ」と訊いたが、軍治が黙つてつゝ立つたまゝでゐると、その手をとり居間に引いて来た。見ると、幾と軍治の食膳がいつになくきちんと並べてあり、幾は自分から先に坐つて軍治をも膳につかせ、親しみ深い手つきで飯を盛つた。軍治は甘酸つぱい気持の中で温和《おとな》しく箸をとり上げ乍ら、思ひ出が今又帰つて来たやうで楽しく、又、幾の心を試したやうな気にもなるのだつた。
 それ迄は別にこれと云ふ際立つた意識もなく過して来たのだつたが、軍治の脊丈が眼に見えて伸び始める頃になると、彼の中で或る物がはつきりと眼覚めて来た。それは今も猶鮮かに残つてゐる生家の記憶、云はば鳥羽家の気質であつた。
 この頃では蒔はますます老いこみ、腰がひどく曲つてゐるので着物の前が合はなかつたりして、子供のやうにだらしなかつた。幾は幾で、小鬢には白髪も少しは見えて来たが、相変らず客を送り迎へする時には見ちが
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