らしたりした。
かう云ふ軍治と幾との間は普通の継母子でもなければ実母子でもなく、相反撥し、又、相引合ふ奇妙な状態であつて、それが軍治に苦痛を与へてゐると同じやうに、幾の中にも絶えず響いてゐるのだつた。
鳥羽が軍治に幾の家の跡目を継がせようと言つて呉れた時には、自分のこれから先が急に開いたやうな気さへしたのだ。同じやうに蒔もこれには涙をこぼして嬉しがつたので、それを見ると、幾は自分も苦労の仕甲斐があつた、と思つた。鳥羽家の子供を晴れて吾が子と呼び、母と呼ばれる楽しさは、鳥羽に死なれ、又以前のやうな商売に入る辛らさを消し慰めて呉れたのだつた。軍治の母になると、鳥羽の親戚の者でさへ以前とは違つた眼で見てくれるのがそれと解る程だつた。
しかし、母だ母だと思つてみたところで、軍治に対する今更らしい扱ひ様があるわけではなかつた。鳥羽の子供だと云ふことが未だに頭にあり、又、下手にばかり出てゐた癖は消え失せず、結局軍治の我儘を通してやることが多かつた。母と呼ばれることにも慣れてみれば、商売の忙しさが身を追つて来て、寝る暇さへない位に働いてゐる中には、気の張りも出るし、人扱ひの面白さも思ひ出して来た。それもどうにか目鼻がついて来ると、面と向つて、女手一人で感心なと言はれる時の励みもあり、商売柄で毎日のやうに現金が自分の手で動かせる楽しみも加はつた。この分ならば軍治にも出来るだけの教育を受けさせ、鳥羽側の親戚に対し引け目を感じないで済む、さうも思つた。
その軍治が時々発作のやうな癇癖を起しまるで手のつけられない事のあるのには、どうしてこんな子供を貰ひ受けたのか、と愚痴と解つてゐて考へたりした。それも中学へ入つたら、少しは大人びて来るかと思へば、偶《たま》に休暇で帰つて来ると、二三日はともかく、直ぐに不機嫌になつて、何が気に入らないのか事毎に癖の発作を起す。癖だと思ひ過してゐると、客が来なければ静かでいゝと云ふやうなことを口に出すのだつた。誰のために商売してゐると思ふかと幾が腹立ちまぎれに開きなほると、自分が好きでやつてるのぢやないか、と底意地の悪い眼で睨み返して来た、幾は青くなつて「知らん」と言ひ、立ち上つた。すると軍治は傍に在つた長火鉢の火箸をぱつと幾の足許に投げつけたのだが、一つが跳ねかへつて幾の足にあたつた。幾はそのまゝ縁側に走り出ると声を立てて泣き始めた。傍の台所から女中がとび出して来たのを知ると、幾は顔を両手で押へ乍ら居間に引返し「一体どつちが悪いのか、卯女子さんの家まで聞いて貰ひに行く」と云ふ意味のことを途切れ途切れに叫び、矢庭に箪笥の引手に指をかけたが、見当もなく衣類を引張出すと、その上に俯伏《うつぶ》して肩を戦《をのゝ》かせ、身悶《みもだ》えし乍ら泣き出した。
その次の日、軍治が何時になく和《やはら》いだ眼つきで話しかけ、この商売を止めてくれるわけには行くまいか、と言つた時には、幾は又かと云ふやうに眉をしかめたのだが、軍治は珍らしく神妙だつた。家が家らしくないこと、偶《たま》の休暇で帰つてみても昼と夜とをとりちがへた騒々しさで、絶えず客の気を兼ねてばかりゐなければならぬやうなこの商売は自分の気質に合はないこと、若し自分のためを思つてくれる気があれば止めて貰ふわけには行くまいか、など話すにしたがつて胸の迫るかして、軍治は未だ産毛《うぶげ》のある感じのする唇のあたりを引き締めるやうにし乍ら哀願した。
こんな風に言はれてみると、それもさうだと云ふ気がするのだが、又一方では、何か自分の馴染《なじ》み知り抜いてゐる場所から引落されるやうな、底の知れぬ不安な感情も湧いて、幾は当惑し、顔を曇らせてゐたが、何とか言はねばならぬ気がして、それほどなら、と、口に出しかけた。軍治は見上げ、ぱつと明るさを顔に閃《ひら》めかした。幾は黙つて自分の手許に眼を落してゐたが、軍治に見つめられてゐると思へば、猶のこと心苦しくなり、やがて苦痛の感じを身体一杯に現はすと、それなり口を噤《つぐ》んでしまつた。
実際幾はかう云ふ種類の商売は娘の時分から慣れて来たものであり、殊に今は歳が歳だつたから、止めると云ふことは頭で解つても事実の感じが身に迫ると、唯空恐しい気持に脅かされるのだつた。軍治の鳥羽家風の気質がだんだん拡がり出て来るのが重荷でもあり、又、憎々しい気さへした。
それを又、軍治の方では、情ないと云ふ気の裏から、幾の気持を右から見左から見して詮索し、向うがその気なら此方だつて考へがあるのだぞ、と云ふ風に底冷い様子を身体つきに滲《にじ》ませるのだつた。
中学も後一年で済むと云ふ時、夏休過ぎて家を立去つた軍治は一月余りで突然帰つて来た。肺尖加答児《はいせんカタル》で、医者から休学を勧められた、と言つた。肺、と云ふ言葉で、幾は顔にこそ出さなかつたが
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