、ぎくりとした。今迄とは別な意味で、鳥羽家の子、と云ふことが頭を掠《かす》めた。しかし、見た眼には、顔色は案外よかつた、変つた家の中の様を見廻し、苦がい鋭い顔になつてどこに自分は寝起するのか、と言つた。
その時分、唯一の交通機関であつた乗合自動車が二つの会社に増え、新設の会社から運転手や車掌に部屋を貸してくれと申込まれて、客を引いて貰ふと云ふ弱味があり、否応なく承諾させられたのだが、客室を使ふわけには行かず、幾は自分達の居間を提供し、蒔と幾は玄関傍の帳場に寝起してゐた有様だつた。
幾は今にも軍治から激しい権幕で詰めよられるやうな気がして、慌てて、玄関の上にある女中部屋を片づけ、掃除したのだが、その間、軍治は袴も脱がず、縁側にたつて中庭に向ひ、何か押へつけてゐる風な後肩を見せてゐるきりだつた。女中部屋は以前物置になつてゐたのを畳を入れ、天井を張つただけで、狭い急な板梯子《いたばしご》を上ると、煤《すゝ》けた天井裏の一部が見え、道路に面して低い窓があり、長持や器具類が壁際に押し並べ、積み上げてあつた。埃の舞ひこむ窓口に軍治は机を置き、長持に凭《もた》れて足を投げ出し、弱い眼つきで垂れ迫る感じの低い天井を眺めたりした。
二三日すると、軍治は幾に対《むか》ひ不意に、金を呉れ、と言つた。低い、押しつけるやうでもあれば又|脅《おど》かすやうな声でもあつた。だしぬけに云つたりしてどうする金か、と幾がむつとして訊くと、どうだつていゝ、と軍治は痩せたとも見える頬に刺々《とげとげ》しい嘲《あざけ》りの色を見せた。幾がぶつぶつと言つてゐると、卯女子姉の家へ行つて来るんだ、と投げつけて、軍治は先に仕度を始めた。それでも、出掛けには、あすこは山の中だから空気もよからう、と幾が言ふと、軍治はふりかへつて頷いてみせたりした。
それも十日許り後には舞ひ戻つて来た。今度は自分で女中部屋の掃除をしたりした。滅多に口を利かず、天気がいいと戸外を出歩いてゐたが、黙つて墓参用の水桶を提げて出ることもあつた。
かうなると幾には軍治のことが気になり始めた。卯女子の家へ行つてどんな事を話し合つたのか、と云ふ気もした。今では軍治にある鳥羽家の感じが、幾には苦痛でもあり、重荷であつた。蒔は老いこんで呆けたやうになつてゐるが、それでも身体は確かで、台所へ出て来ては炊事の手伝をしたがつた。それが一々足手まとひで女中達が嫌がるのを、見兼ねて幾が叱りつけ居間へ蒔を追ひやるやうにするのだつたが、又しても着物の裾を引きずり台所に出て来た。それも出来ないとなると、玄関傍の火鉢の前に坐りこんで、客毎に頭を下げ、場外れな挨拶をした。みつともないから、と云つて手をとり引き立てるやうにすると火鉢にしがみついて、自分の何処が悪いか、と頑《かたく》なに言ひ言ひ、皮膚に黒い斑点の浮いた褐色の筋張つた手をもがくやうにして幾の手を払ひ、揉み合ふこともあつた。それにしても、幾の愚痴を聴いてくれ、本気になつておろおろと涙さへ浮べてくれるのはやはり蒔なのであつて、血の通ひ合つてゐるのはこの母と自分だけなのだ、と沁々考へることがあり、さう云ふ時今更のやうに犇々《ひしひし》と孤独な不安に襲はれるのだつた。
冬になり、気遣つてゐた軍治はかへつて肥つた位だつたが蒔が寝ついてしまつた。心臓は確かだが、と医者は言つた。老衰だとは誰の眼にも明かだつた。
場所がないと云ふので自動車会社の人には他所《よそ》へ移つて貰ひ、居間が病室に宛てられた。床の間はついてゐたが、細長い建方なので、居間は障子を閉めると薄暗く、隅の炬燵で蒔は蒲団にくるまり、ぜいぜい息の音を立て、時々|蠢《うご》めいた。頭が呆けて、何を言つても解らず、又他人にも聞きとれない囈言《うはごと》を洩らし、突然手を伸して頭のまはりの空気を掻き集めるやうな格好をした。白髪の油に埃がつき、それが蒲団に覗いて乱れ、寝てゐるかと思へば、不意に啜り泣きのやうな迫つた呻《うめ》き声を立てたりした。
便の始末は幾が人手を借りずにしてゐたのだが、蒔はそれだけは解るのか、身をもがいて嫌がつた。一度、軍治は見るに見兼ねて手伝つたが、此方の腕からすり脱けようとして蒔のもがく力の強さは、抱きかゝへてゐて共倒れをしかけた程だつた。時々蒔は匍《は》ひ出ようとすることがあつた。何所へ行く気なのか解らないので、無理にも蒲団の中へ押し入れると、その時はぢつとしてゐるが、暫くすると又動き出すのだつた。誰も傍に居合せなかつた時、蒔は縁側から長廊下の中途まで這つて来てゐた。便が居間から廊下にかけて、かすり附いてゐた。
軍治は蒔の薄汚い立居には以前にも露骨に顔をしかめなどしてゐたのだが、病気になつて以来の蒔の様子には唯驚き眺める許りで不思議に汚いと云ふ感じが起きなかつた。傍にゐて、すつかり相好《さ
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