はるのが、見てゐて軍治は苦痛だつた。家中どこにゐても楽々と手を伸し、足を投げ出すやうな屈托のない明さはなかつた。軍治は鼠のやうに、客の眼を恐れ、客の気配を感じ、居間から女中部屋へと、安息の場所を探して逃げ歩いた。
 軍治は日に増し癇癖が強くなり、何かにつけてぶつぶつ幾に不足を云ひ「そんなこと構つてゐられるもんですか」と言ひ棄てて立去つた幾が、次の瞬間には襟元を合せ、小柄な肩に控目な様子をつくろつて、小刻みに廊下を客室へ行くのを見ると、いきなり手許の皿などを庭に投げつけ、居間にのけぞつて、手で畳を殴り足で障子を蹴りつけするのだつた。
 さう云ふ時に、蒔は不自由な足を引きずつて近づき「これはどう云ふ児か」と老人らしい筋を額に見せると、軍治は大声に喚き出し、蒔を罵り、今度は又立ち上つて手あたり次第に物を四方に投げつけ、踏みつけ、女中達が呆れてゐる前を盲滅法に家の外へ走り出ると、切なさと後悔の念を交へた頭から胸一杯の混乱に唯ぼうつとなつて、うろ覚えの河沿ひの道を歩いて行つた。姉の所へ行く気だつたが、町を離れると路面は埃で白く唯遠くつながり伸びてゐて、山の重り合つた裾に消え込み、瀬の音が急に耳について来ると、軍治は路傍に蹲《しやが》みこんで、歩いて来た道、眼の届かぬ行手に頭を廻し、母よ、母よ、と意味もなく、声もない呼声に胸をかきむしられた。
 夜になつて、疲れ鼻白んで帰つて来ると、幾は奥から走つて出「どこへ行つてゐたの、どこへ」と訊いたが、軍治が黙つてつゝ立つたまゝでゐると、その手をとり居間に引いて来た。見ると、幾と軍治の食膳がいつになくきちんと並べてあり、幾は自分から先に坐つて軍治をも膳につかせ、親しみ深い手つきで飯を盛つた。軍治は甘酸つぱい気持の中で温和《おとな》しく箸をとり上げ乍ら、思ひ出が今又帰つて来たやうで楽しく、又、幾の心を試したやうな気にもなるのだつた。
 それ迄は別にこれと云ふ際立つた意識もなく過して来たのだつたが、軍治の脊丈が眼に見えて伸び始める頃になると、彼の中で或る物がはつきりと眼覚めて来た。それは今も猶鮮かに残つてゐる生家の記憶、云はば鳥羽家の気質であつた。
 この頃では蒔はますます老いこみ、腰がひどく曲つてゐるので着物の前が合はなかつたりして、子供のやうにだらしなかつた。幾は幾で、小鬢には白髪も少しは見えて来たが、相変らず客を送り迎へする時には見ちがへるほどしやんとなり、いそいそとして客の後になり先に立ちする様子を見ると、軍治はこれが幾の身についてゐるのではないかとも思はれ、又、この商売を楽しんでゐるのかも知れぬ、と疑ふのだつた。
 何時誰からともなく、幾のずつと前身は町端れの煮売屋で、他人からでも名前を呼び捨てにされてゐた、と聞き覚えてゐた。「小母さんは怜悧《りかう》な人だから、自家《うち》へ来れば他人から呼び捨てにされないと、ちやんと知つてゐたんですよ」と姉からも聞いたことはあるが、さう云ふ意味の事は遠縁の老婦も言つてゐたし、幾の家へ来てからも、台所で下働きをしてゐる話し好きな老婦が問はず語りに聞かせて呉れた。その時は、なにも特別な感情を与へはしなかつたが幾や蒔の様子に何か軍治の身体の底の方で喰ひ違ひ、時には歯の軋《きし》むやうな嫌らしさを起させる所があるのを感じたりするいまでは、それ等の智識が特別な意味で軍治の頭に蘇《よみが》へるのだつた。
 幾の手に引かれ、身の廻りの世話をして貰つた記憶はまざまざと今も残つてゐるのだが、その親身な感じで今の幾を見ると、これがあの幾だつたのか、と云ふ気がした。ここ数年間幾はたゞ客の方に気をとられてゐて、軍治の着物の世話などは全くの他人任せになつてゐたからよく寸法が狂ひ、仕立下しの着物が引きずるほど長かつたり、胴が窮屈で着られなかつたりした。
 客に怒鳴られ、平謝りに詫びてゐる幾を見、少しの落度もないやうにと忙しく走り廻つてゐる幾を見すると、軍治は自分が卑《いや》しめられてゐると感じた。それも重なり重なると、着の身着のまゝごろ寝して枕を外し、腕を伸し、大口を開けて鼾声を立てる幾の格好などが一々|厭《いと》はしく、嫌らしく、これは自分の母ではないぞ、と、軍治は心|密《ひそ》かに自分に言ひ聞かせるのだつたが、それにしても最早自分の身を寄せる所はこの幾より他にないと云ふ考へも湧き、じめじめと卑屈に客の顔色を窺つたりした後では、又しても癇癪を起し、何と言つたつてお前はこの俺を息子にして喜んでゐるのではないか、と口には出さないまでも、手荒にガタピシと障子襖を開け立てし、果ては幾に喰つて掛かつて、幾が逃げかゝると猶も追ひつめ、手こそ振上げなかつたが、狂ほしく声を限りにが鳴り立て、幾が堪りかねて、客に聞えるから、となだめにかゝると、客と此の自分とどつちが大事なんだ、と青くなつて足を踏み鳴
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