てみると途中にある二つの中庭から、樹木の緑を混へた光が廊下に映り、足音をたてずに忙しく往来する女中達の白足袋などが鮮《あざや》かに動いてゐたりして面白かつた。
 初めの中、軍治は物珍らしく、長い廊下を走つてみたり、客用の器具を持ち運びする女中達の手伝をすると云ひ出してきかなかつたりした。朝に晩に、見知らぬ多数の客が出入して、中には度々来るので軍治の顔を見覚え「坊ちやん、来い」と言つて客室へ連れこみ、菓子を呉れる客もあつた。酔ひ痴《し》れて、廊下をふらり、ふらりよろめき歩き、面白がつて眺めてゐる軍治に、卑猥な指の作り方をして見せる男もあつた。常に家中を見廻り歩き、台所で口汚く女中を叱りつけてゐた幾が、さう云ふ客に向ふと、まるで別人のやうに物柔かな顔になり、腰を低くするのが軍治には恥かしく、腹立たしい気持だつた。
 夜は一時か二時に寝、朝は朝で女中よりも先に起き出る幾は、昼間の閑《ひま》な時刻にはごろりと居間の暗い片隅で横になり、直ぐに鼾《いびき》を立てた。すると、その時分はもうすつかり老いこんで腰の曲つた蒔がごそごそと一人物音をたてて、押入から蒲団を引出し、寝てゐる幾に掛けてやるのだが、見るとそれが敷蒲団であつたりした。
 忙しくて食事の時間が少しも決まつてゐなかつた。朝学校へ行く前など、軍治はよく一人で食膳に向つた。直ぐ傍の台所で、女中達が拭き並べる客膳の音、板場の罵る声、幾が帳場から台所、客室への挨拶などで小速に踏み歩く足音、それらが高く入り乱れ、間断なく響いた。面倒を省く為に、軍治は客と同じ食事を宛《あ》てがつて貰つてゐた。毎日殆ど変りのないもので、終ひには刺身、吸物と云ふやうな食事を見るのも嫌な気がして来た。夜の食事が一番遅れ勝ちであつた。待つてゐてもなかなかなので戸外へ遊びに出ると、近所の友人やその弟達が湯上りらしい照《て》か照《て》か光る鼻をして、のんびりと遊んでゐる中へ這入ると、軍治は自分だけが汚くよごれ、腹の空いた顔をしてゐるやうな気がし、誰にも云へない卑屈な寂しさを味つた。その間にも用意が出来たかどうか見に帰つたが、居間には蒔が視力の薄い眼で自分だけの食残りの皿を出してゐるだけなので、軍治は又何気ない顔で、友達の間に帰つて来たりした。
 兄姉達と戯れ笑ひ乍ら明く楽しい灯の下で食卓をかこんだ頃の事が忘れられず、軍治は幾を待つてゐるのだつたが、幾の来る時には食事が冷え切つてゐたりした。幾は鳥羽家にゐる間は忘れてゐた晩酌を、その頃から始めるやうになり、くどくどと蒔を捉《とら》へては商売の辛らさを言ひ、時には愚痴の涙まじりに盃を重ねるのだつた。しかし、幾が軍治の記憶にもない頃の鳥羽家の様子を話して聞かせる時には、軍治は楽しく聴入るのだつた。父の気難しかつたことを言つては丁度お前に似てゐる、と軍治を指して笑つた。それから又、母が幾の家へ遊びに来た時のことも話して聞かせた。母は煙草が好きで咽喉《のど》が悪いと云つて咳をし乍らも、煙草を手から離さないやうにしてゐるので、幾がそれでは身体に悪からう、と云ふと、母は、病みつきだからこればかりはね、と笑つてゐたが、矢張りあの煙草好も胸を悪くする因《もと》だつたらう――それを話し乍ら幾はどことなく顔を伏せるやうな風があつた。軍治はその時奇妙な不安を感じた。彼の頭には姉から聞いた母の死前後の模様が残つてゐるのである。幾のことがあつたし、母は随分死ぬ迄気にかけてゐたのだ、と聞いた。母の記憶はなく、幾の親味《したしみ》だけが胸にある軍治には、それも唯聞いてゐるだけであつたが、この場合になつて不意に湧き上り、重々しく胸を打つた。意味はよく解らなかつたが、頭の中の物が右と左に引き離され、何か安心してゐられない気持だつた。
 ある夜、客が混んで、室が空くまで暫らくの間、二人の男が軍治達の居間に座をとつた。客の商人と、今一人は客を訪ねて来た町の人であつたが、酒を飲み、歌ひしてゐる中にだんだん乱れて来た。冬も夜更けであつたから、軍治は、眠くはあり、隅の炬燵《こたつ》で小さくなつてゐた。傍には蒔が寝てゐた。すると、客の一人は年老いた蒔の寝顔を眺め、卑猥なことを口にした。軍治は炬燵の上に頬を押しあて、眠つた振りをしてゐたのだつたが、かつと胸が熱くなり、起きなほつて男を睨みつけた。しかし、酔ひ痴れてゐる男は軍治が眼に入らないらしく、もう相手の客と何事か笑ひ興じてゐた。軍治は立つにも立てず、蒲団の下で炬燵の櫓《やぐら》をしつかりとつかみ乍ら、ぶるぶる小さい身体を顫はせた。
 その頃から軍治は来る客来る客に憎しみを覚え始めたのだつたが、それを幾にどう言つたらいゝものか解らなかつた。肩を張り廊下を踏み鳴らす客、傍若無人に女中を叱りつける客、それに対して、女中はもとより、幾も亦|唯々《ゐゝ》として言ふなりに動きま
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